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ブランシュネージュ Ⅴ

静かだった。そこはいつも静かだったけれど、今日に限ってやたらと静まり返っているような気がした。きっと以前は此処も使っていたのだろう、そのまま放置してある机を幾つか並べて、その上に寝転がって目を閉じる。暖房のないこの部屋では、相変わらず空気は肌を刺すようだったけれど、京義は特別それを苦にしていなかった。暑いよりも寒いほうが、幾らも気が落ち着いた。それにしても寒い二の腕を摩って、固くて不安定な机の上で寝返りを打つ。こんなことならセンターまで降りれば良かったかもしれないと思ったけれど、この寒いのにきっと保険医の男も不機嫌に違いないと思うと、それに付き合うのは徒労に思えた。薄く開けた目は窓を写して、その奥ではまだ雪が降り続いているようだった。綿のようなごみの塊が、空から降ってくる。本質を捉えればそうなのに、それはどうしてこんな美しさを兼ねているのだろう。京義には良く分からなかった。その美しさは、全てを覆した上に全てを邪魔しているようにも思えて、けれど物事の本質なんてものは、案外そんなものなのかもしれないとも思っている。これは途方もない諦めに似ている。思って吐いた息が白く染まって、京義は体の上にかけたブレザーを引っ張った。ここで眠ったら、悪くすればこのまま凍死するのだろうか。 頭がそんなろくでもないことを考え出したときだった。静かだった空気に、足音が混ざって京義の神経を刺激した。瞑ろうとしていた目を二三度瞬かせて、京義は目を擦った。足音は段々と大きくなってきている。これは確実に近づいてきている。誰か教師が見回りに来たのだろうか、面倒だが体を起こして、京義はブレザーに再度腕を通した。ただでさえ目を付けられているのだから、今更優等生演じても仕方がないと思ったが、何となくあった後ろめたさが京義にそうさせた。それでも並べた机からは降りることはせずに、京義はどう見てもそれが優等生の態度などではない格好で、確実にこちらに近付いてくる足音に耳を澄ませていた。京義のクラスも担当教師は来ていたが、教師は教師でこの雪で遅れた生徒や事故状況などの情報収集による会議に追われており、自習と黒板に書いて一言付け足すと早々に出て行ってしまった。丁度朝から眠かった京義は、そもそも京義に限って朝眠くなかったことのほうが珍しいが、教室で眠ろうと思ったのだったが、いつもと雰囲気の違うそこは京義にとっては煩わしいほどの騒がしさで、堪らず音楽室まで上がってきたのだった。思ったとおり特別教室ばかりで構成されている5階は、どこもかしこも京義の好きな静寂で敷き詰められていた。 足音は面白いほど此方に近づいて来たかと思うと、教室の手前でぴたりと止まり、次の瞬間にはガラリと音がして扉が開かれた。 「オイ、止めとけよ」 「ヤバいってマジで」 そこには京義のクラスメイトの志田が立っていたが、京義はそれが一体誰なのか判別出来なかった。クラスメイトの顔と名前がもう2月になろうとしているのに、未だに一致していない。そもそも京義に覚える気がないのだから、多分これはこのままの状態で4月にあっさりとクラス変えが行われるに決まっている。声がしたが、それは志田のものではなかった。証拠に志田の口は結ばれたまま、開かれる様子がない。しかし一体何の用なのか、教師でもないのなら寝て居れば良かったと京義が落胆しながら思っていると、ばたばたと煩い足音が追いついて、志田の後ろに二三人、これもまた男子生徒の姿が見えた。どちらも京義のクラスメイトだったが、やはり京義にとっては右に同じ、全く個性というものを感じ取ることの出来ない容姿に、特定の名前など必要なかった。京義に言わせて見せれば、その域をふたりとも脱していない。どうやら先ほどの制止の声は、このふたりが出していたものらしい。目が合うと京義は全くアクションを起こしていないのに、びくりと肩を震わせて男子生徒がひとり後退した。もうひとりは志田の腕を後ろから掴んで、どうやら扉から離そうとしているらしかった。 「もう良いじゃん、なぁ」 「薄野はヤバいって、ほっとこうぜ」 双方とも小声だったが、音楽室奥の机の上に座る京義にもそれは聞こえた。しかし志田は友達らしい必死で止める男子生徒に腕を掴まれたまま、全くそれが聞こえていないのか、もしくは無視しているかどちらかとしか思えない唐突さで、口を割った。 「薄野、今から皆で2限目ストライキしようって言ってんだけど」 「お前も来ない?雪降ってんだしさ、他のクラスの奴らも雪合戦してるから」 その時音楽室に居たのは自分だけだったから、志田は自分に言ったのだろうと京義は思った。最後まで一体何に畏怖しているのか全く分からないが、怯えた顔をしていた男子生徒に引っ張られて、京義がそれに返事をするより早く、視界から志田は消えてしまった。ぼんやりと京義は見えるわけでもないのに、志田とクラスメイトが去った廊下のほうを見やっていた。そういえばこの寒いのに体育でもやっているのか、グランドに人影があるとは思っていたが、あれはストライキをしている連中なのか、京義は思ってもう一度窓のほうに目をやった。肉眼では確認し難いが、そこにはもうかなりの人数が集まっているように見えた。成る程、思ったがどうしてもそれが徒労にしか思えず、志田とクラスメイトが去った京義の愛する静寂の中で、京義は同じようにそこに横たわって目を瞑った。本当に誰が言ったのか、自分のことなど放っておけば良いのに、一体どういうつもりなのだろう。授業のストライキは中々楽しそうな催し物ではあるが、それに加担しても参加するつもりはなかった。大体雪合戦なんていう子どもっぽい遊びにだって、京義は微塵にも魅力を感じることが出来なかった。 それなのになぜなのか、頭ではそう考えているのになぜなのか、京義はむくりと起き上がるとおもむろに机から飛び降りた。一体どこに行くつもりなのか、自身にすら問いかけてしまう。この部屋は確かに寒いかもしれないけれど、それは暖房が利いている教室と比較すればの話である。閉め切っている分廊下よりは随分温かい。それに確かに暖房は利いているが、利いているせいで空気が妙に生温い教室に比べれば、少しくらい冷え込んでいる音楽室のほうが、居心地でいえば良いのかもしれない。それなのになぜなのだろう。外は廊下以上にきっと冷えている。もう冷えているとかそういうレベルの問題ではないかもしれない。空気が冷たいと眠気が飛んで、少しは目が覚めるかもしれないとか、そういう言い訳しか浮かんでこないで、京義は誰に言うわけでもなくひとりでそんなことを考えながら、廊下をゆっくり歩いていた。 部屋の中は随分温かくなっていた。唯は灰色のステンレスで出来た机の上に寝そべって、うつらうつらしていた。挨拶要員から開放されて、すぐにセンターの中に帰って来たけれど、やはりここは薄暗くて冷たいだけのいつもの薬品臭い部屋だった。期待を全く裏切らない、良い意味でも、悪い意味でもだ。溜め息を吐きながら電気をつけて、ストーブと暖房をつける。唯は勝手にストーブと呼んでいるが、正式にはハロゲンヒーターだった。電気をつければすぐに温まるヒーターの側に椅子を引っ張っていって、コートも脱がずにかじかんだままの手のひらを翳して、そのころになってようやく落ち着けて息を吐いた。相変わらず外は雪が降り続いているが、そんなことには勿論唯は関心がない。暖房も利き始めた部屋の中、そうすると随分温かくなって、唯はコートを脱いで気付いた。マフラーを借りたままだった。名前を思い出さなければと考えていたはずだったのに、いつの間にかその思考は奥へと追いやられて、結局寒さのことしか考えて居なかった。赤いチェックのそれを首から外して、仕方なくコートと同じハンガーに引っ掛けると薬品棚の隣にある、灰色のロッカーにそのまま突っ込んだ。シャツの上に着ていたグレーのセーターを引っ張って、ロッカーの中からいつもの白衣を取り出すとそれに袖を通す。大体これを着ていると仕事をしているという風に感じるし、傍目から見ても一目で保険医と分かり易く、唯は保険医という職が特別白衣を羽織るほどのこともない業務であることは知っていたが、何となくその居心地の良さからなのかそこから逃れられていない。幾ら考えても名前まではやはり覚えていない。これは年のせいなのか、自慢のひとつだった抜群に良い記憶力が年々鈍ってきているのか、それとも覚える気がそもそもないから海馬が受け付けないのか。椅子に戻った唯は天井を見上げて、眉間を押えた。じっとそのまま動かないでいると、記憶の底から取り出せそうな気がした。その可笑しな格好のまま暫く考えたが、やはり依然として名前は思い浮かばずに、腕がただ疲れただけだった。 回転式の椅子をぎしぎしいわせながら回して、机の上に肘をつく。せめて学年が分かれば、一体どんな子だったか。結構髪の毛は茶色いほうで、しかしこの学校には髪を茶色にしている女の子なんて幾らでもいる。進学校の割にこの高校は随分と校風が緩いことでも有名だった。勉強して偏差値さえ上げて、著名な大学に行って学校の質を上げてくれるのならば、生徒のプライベートなことには余計に首を突っ込まない、という姿勢らしい。その考えには唯も共感出来るし、随分と合理的な案だと思う。しかしこの保守派の多い教育という現場に、良くこのような前衛的な考えが受け入れられたものだ、ぼんやりと思案しながら一体自分はそもそも何を考えていたのか、完全に横道に反れていることに気付き、慌てて朝の情景を思い出そうとする。いっそ京義か、そうでもなくとも嵐のように目立つ生徒だったら覚えていたのに、多分自分の首にマフラーを強引に巻きつけた女の子は、その辺にいる普通の女子生徒だった。苛々しながら頭を掻いて、そのまま額を机の上につける。じっとしていると温かい温度のせいなのか、徐々に眠気が襲ってきた。ここで居眠りをしていることなど、日常茶飯だったが、あの子が誰なのか分かるまでは眠るわけにはいかないと思いながらも重い目蓋をどうすることも出来ない。そうして唯はそこでぼんやりと中々思い出せない生徒の名前を脳の中探りながら、うつらうつらとしていたのだった。

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