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ブランシュネージュ Ⅵ
「先生!」
そうやって殆どセンターを私物化し、唯が自分の砦で寛いでいるのがいけなかったのか。突然そう大声で呼ばれるのと同時に、扉の開くガラガラという音が静かだったセンターに響き渡った。反射でびくりと体が勝手に反応し、机の上から慌てて起き上がる。半分以上意識を置いて来てしまったのを早急に回収しながら、歪む視界を銀色の眼鏡がずれていたのを直して鮮明に戻した。回転椅子に乗ったままくるりと振り返ると、そこには現代国語の教師である湯浅が立っていた。唯だって一応社会人なのだから、廊下で擦れ違ったら挨拶くらい交わすが、そもそも殆ど此処を動かないせいか、特別良く知っている間柄でもない。気分でも悪いのかと思ったが、あの大声で体調が優れないということはまずないだろう。考えながら良くないことではありませんようにと、少し祈るような気持ちで唯は再度ずれてもいない眼鏡を弄った。
「どうしました・・・?」
「大変なんです、1年の生徒達がグランドで遊んでるんです!」
「・・・はぁ・・・」
だからどうしたと言いたかったが、その時湯浅が余りにも真剣に、良く見れば本当に参っているようだったから、この雪で教師も色々追われることがあるのだろうと、唯はそう思うと逆に気の毒になって、まさかそんなこと口には出せなかった。曖昧な相槌が思わず口から漏れたが、それを掻き消すようにひとつ咳払いをして、唯は出来るだけ心配そうな声を出すことに務めた。
「それは、とても大変ですね」
しかしどこか他人事のように聞こえて、自分でも言いながら半分以上不味いと思っていた。こういう時は決まって大体教職の人間と自分は、性格的に合わないのだと思う他ない。学校が合理的な割に、頭が固い教師がここには自棄に多かった。それに一々なぜそうなのだ、もっと効率の良い方法があるだろうと言ってやる事は簡単だったが、ここで余り波風を立てたくない唯は、自分に被害のないことは特別口を挟まないことにしていた。その客観的な態度が、今こうして裏目に出ていることを唯は感じながら、ひとりで反省した。しかし運が良かったのか、その時の湯浅は本当にそれで参っているのか、尤も唯にとってはどうでも良いことのようにしか思えなかったが、特に湯浅はまだ若かったので上の人間の言うことを一々、聞かねばならないストレスもあるだろう。この分では割と日頃から無理強いをされているのかもしれない、この雪の降る日に職員は何だかんだと会議を開いているらしいことは聞いていた。それで忙しくてパニックなのか、一体どれが起因しているのか分からないが、取り敢えずその時湯浅は唯のどうでも良いと完全に思っているだろうその返答に、顔色も声色も変えずに続けた。
「すみません、先生もお忙しいでしょうが!」
「いや、別に今は・・・」
「ちょっと生徒達を頼んでも良いでしょうか!」
本当に居眠りをするほど暇だったが、本当のことなど言うべきではなかったと唯はその時後悔した。しかし後から考えてみても、その時他の返答をしたところで、結局湯浅は唯の言葉など何ひとつ耳に入れていない様子だったので、同じことになっていたに違いなかった。
「は?」
殆ど素でそう返してしまったが、湯浅はそれにやはり何も言わずに、どう考えても随分慌てているようだった。平常の唯の対応と今の対応を比べてみれば、違いは明らかなのだが、湯浅にはそんな余裕もないのか、随分慌しく口調も早口だった。
「それじゃ、後はお願いします!僕らも会議終わったら行くので!」
だったらそれはいつになるのだと問い詰めたかったが、唯が何か言葉を発するよりも早く、湯浅は慌しい動作のままセンターから殆ど飛び出すように出て行ってしまった。折角この部屋が暖かく居心地良くなったところだったのに、しかし肩を落とした唯を慰めてくれる人間も、愚痴を聞いてくれる人間も、残念ながらこの心地良い場所には居ないのだった。
そんなことがまさか保険医の仕事だとは勿論思えなかったが、押し付けられたとはいえ承諾してしまった格好になってしまった以上、生徒の様子を見に行かなくてはいけなかった。なんという不運続きなのだと、唯は白衣を脱いで代わりに先ほどハンガーにかけたばかりのコートを取り出し、それに再度腕を通した。苦渋の選択でヒーターと暖房の電源を落とし、センターを元の薄暗い部屋にして扉を閉めてそれに鍵をかけ、扉にかかった札を外出中にしておく。一体自分は何をやっているのだと、寒い廊下を歩きながら思う。今日の挨拶要員といい、これといい、保険医を何だと思っていると声を大にして言いたかったが、取り敢えず平穏無事に過ごしたい唯は我慢を強いられる。教員用の下駄箱で靴に履き替えると、そのままガラスの扉を押して外に出る。外は廊下の比ではなく冷え込んでいた。先ほどまでこの寒さの中、良く立っていられたなとポケットに手を突っ込みながら溜め息を吐く。もうすでに誰かが踏み荒らした靴跡の残る階段を下りて、グラウンドに向かっていると、唯の目の前を生徒用の下駄箱から出て来たのだろう、ひとりの生徒が横切った。
「・・・お、不良少年」
唐突な唯の呼びかけに、京義はその場でゆっくりと無言で振り返る。そうすることで、その名前が暗に自分のものだと認めていることになっていることに、この少年は気付いているのかいないのか。いつもの無表情の頬が妙に赤くて、別段この男は血が通っていないわけではないことに今更安堵する。無言で近寄って、殆ど色の抜かれた白髪に近い頭をくしゃくしゃと撫でると、京義の眉間には面白いほど露骨に皺が寄った。自分もこれくらい嫌悪感を前面に押し出せるようになれたらと思いながら、そんな子どもっぽいことをする社会人にきっと職などいつまでも宛がわれないだろうことも分かっている。だからこれはただの空想だ。唯はそのままその手をスラックスのポケットに突っ込み、そこから煙草を取り出していつもの動作で銜えた。少しくらいこうして熱でも取らないと、やっていられない。思いながらライターでつけた火が、ほんの一瞬唯の手を温める。京義はそれを興味無さそうに横目で見ながら、やはり何も言わなかったが、それは決して理解があるわけではない。この少年は殆どのことに、こうして興味を示すことがないのだった。それが別に悪いことだとは思わない、唯自身にそういうところがあるからだろうか。思い当たる節なら幾つでもある。ふうと煙を吐き出すと、息も同時に白く濁った。
「何やってんだ、お前はこんなところで。授業はどうした」
「・・・別に、雪合戦やっているって言うから」
「ほぉ、何だお前、意外に子どもだな」
返答は全く温度のないものだったが、京義の口からそんな言葉が出るとは思わなかった唯は、何だかそれに嬉しくなって京義の頭をまたぽんぽん叩いた。そうして見上げる京義の視線が鋭いのには、依然気付かないふりをする。しかし京義はこちらを睨みつけるが、それを否定はしなかった。だからそれは肯定と同義なのだと京義が気付いているのかいないのか、唯には分からない。何だかそれを咎めて教室に戻るのも馬鹿らしくて、成り行きのまま京義と一緒にグラウンドに続くアスファルトを歩いた。少し傾斜になっているところを上り切ると、そこはいつも砂の敷き詰められたグラウンドなのだが、今日は代わりに雪が地面を覆っている。成る程、そこには3クラス分ほどの生徒達がめいめいはしゃぎながら、雪合戦をしているようだった。唯は暫くそこに立って、一体この状況をどうすべきか考えながら、煙草を吹かしていたが、京義はするりと唯の側を離れてふらふらと雪玉が飛び交う中をどこに向かっているのか、歩いて行ってしまった。あの少年が雪玉を作って投げている姿が見たくないわけではないが、自分が何をしにやって来たのか、忘れるわけにもいかなかった。こんな場所で煙草を吸っているところを見つかったら、多分それより酷いお叱りが待っていることは良く分かっているのだったが。
はぁと溜め息を吐いて、唯は取り敢えず話を聞いてくれそうな女の子からまず説得しようと、それにしてもまるでこちらを見てくれない女の子たちに近寄った。すると後ろに何かぼすりという鈍い音とともに何かが当たり、背中から背筋にかけて痛みが走った。苦い表情を浮かべながら振り返ると、そこには非常に嬉しそうな顔をした嵐が雪玉を両手にひとつずつ持って立っていた。
「お前・・・―――」
「唯ちゃん、白組なー!」
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