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幻さえも欲しくなる
そこはいつも誰も彼もが忙しなく、何かに追われているように見えた。時間か仕事か、それともそれ以外の何かなのか、中舘 には分からない。目が合う人間に一々挨拶をされるのに、軽く会釈を返しながら、忙しそうに動き回る社員と机の間を縫って歩く。広報部のフロアを抜けると長い廊下に続いており、中舘のストレートチップがそれを叩いてコツコツと音を立てる。廊下では誰とも擦れ違わなかった。社名が刻まれているガラスの扉の隣にあるカードキーに社員証を通すと一瞬赤くランプが光って、それからすぐに目の前の扉は開いた。そこは広報部とは違って随分静かに、きっちりとスーツを着こなした女性3人がそれぞれ自らのデスクに座り、キーボードを操作している。中舘に気付いたひとりが無言で頭を下げ、それに中舘も会釈を返す。その部屋も早足で通り過ぎると、奥が目的の部屋だった。茶色一色の重厚な扉が、威圧感と存在感を示してそこにある。中舘はその前でひとつ呼吸をして、とんとんと音がするようにその扉を叩いた。
「失礼します」
奥から返事はなかったが、中舘はそのままノブを回して扉を開く。部屋はそんなに広くもなく、ただだからといって狭いわけでもない。要らないものを一切取り払った簡素な空間の中、異様な存在感を放つ黒光りする社長椅子に目的の男は優雅に座っていた。その後方の壁は一面ガラス張りになっており、そこから異国の絶景が拝めるようになっている。それに固執したのは建築家でも中舘でもなく、そこに座っている鏡利だった。いつかドラマで見た社長室には大きい窓があったと、子どものようにはしゃいで言っていたのを、そのせいでそれを見るたび思い出す羽目になっている。この異質を振り撒く無駄に高級なテーブルと椅子だって、社長というものはこういうものに座っているものだという鏡利の固定概念から来ている。特別それは業務に支障が出るほどのことでもなく、そうすると中舘にとってはどうでも良いことだったので、本人のやりたいようにさせるといつの間にかこの部屋はこのようなことになっていた。少しは手を回すべきだったのかもしれないと、出来上がった社長室を見学しながら、満足に目を輝かせる鏡利の隣で中舘は溜め息を吐いていた。兎も角その時そうして自分の思い描いた空間の中央に鎮座していた鏡利は、真面目に仕事をしていたようで、中舘を見つけるとテーブルの上に放置されていたノンフレームの眼鏡を取り上げ、それをかけると何を見ていたのか手元の資料をぱっと離した。
「あれ、どうしたの、中舘」
「お仕事中申し訳ありません、来週のスケジュールの変更のことでお話に上がりました」
「あ、それなら沙希ちゃんに頼んだはずなんだけどなぁ、中舘のところ行ってない?」
沙希ちゃんと鏡利が馴れ馴れしく呼んでいる女の子は、中舘と同じ秘書課の人間だった。中舘は人の名前と顔を覚えるのが苦手だったが、鏡利は逆に一度会った人間の顔を忘れたことがない。efで働いている人間が多過ぎるのも要因のひとつだったが、鏡利がどんどん名前を覚えて更にそれに親しみを込めて呼ぶようになると、いよいよ中舘は混乱してしまう。しかしそれを鏡利に申し出るのはそれ以上に口惜しい気持ちがするので、中舘は日頃の業務と同程度の神経を鏡利のそれに費やしてしまっている。
「伺っております」
「あれ、じゃぁ何?」
こちらの気も知れずに、鏡利はきょとんとしている。
「また日本に戻られるのですか、この間戻られたばかりです」
「・・・あぁ、その話、ね」
それに苛々している中舘はつい刺々しい口調で、鏡利に詰め寄った。しかし鏡利にも思い当たる節があるのか、中舘からわざとらしい所作で目を反らして、何とも嫌そうな雰囲気を醸し出しはじめる。efはフランスとアメリカに支部があり、まだどこにも認知されて居ない頃から、鏡利はその殆どをどちらかの支部で仕事に追われていた。その当時の努力があったからこそ、今のefが成り立っているのだと中舘は密かに思っている。そしてその頃、鏡利はそれに文句のひとつも言わずにただ淡々と目の前の仕事を片しているように見えた。それがどうしたことか最近になって、自棄に日本に戻りたがり、中舘がそれを許可しないと知るや否や、第一秘書の自分のところではなく、別ルートを使ってスケジュールを変更させる横暴に打って出ている。今更ホームシックだといわれても、中舘がそれに納得出来るはずもない。一体何がそこまで鏡利の興味を掻き立てているのか、何だかんだと結局一緒に日本に帰る羽目になっている中舘には全く分からず、またそんなことをされたらここでの業務が一部ではあるが一時中断するわけで、それを毎回あっさり許すわけにもいかない。それも何度も鏡利に説明しているつもりだったが、そしてその度鏡利はそれに分かったように頷いているように見えたが、この分ではただ面倒臭かったから適当に流していただけなのだろう。鏡利には実にそういうところがある。
「何か用事があるんでしたら、日本支部の連中に話をつけますので仰ってください」
「いや・・・別に用事とかじゃ・・・」
「それでしたら構いませんね、来週の帰国の件はキャンセルさせて頂きます。スケジュールは変更前の通りになりますので、お間違えのないように」
「・・・な、中舘ぇ・・・」
顔をくしゃくしゃにして鏡利が殆ど涙声でそう言うのに、それを聞かないふりをして中舘はあらかじめ変更以前のスケジュールを印刷しておいたものを鏡利の机の上に乗せた。鏡利は一瞬それに目をやったが、全く納得していないようで、溜め息を深々と吐いて肩を落としている。
「何か」
それに中舘が冷たい声で念を押すのに、鏡利は更に体を小さくしたように見えた。
「・・・あ、じゃぁ、今回は見送るからさ、再来週良いかな、帰っても」
「鏡利さん、貴方のスケジュールは3ヶ月先まで綿密に組まれております。そんな暇はとてもありません」
「じゃ、じゃあ、3ヶ月先でも良いよ!最悪!」
一体それのどこに希望を見つけたのか知らないが、きっと自分でも良いアイデアが思いついたと思ったのだろう。後半殆ど叫びながら鏡利は机をバシッと叩くと、立ち上がって眉間に皺を寄せている中舘のほうに身を乗り出した。勿論中舘は、それに更に眉を顰めるしかない。鏡利は昔からどこかぼんやりしているところがあり、妙なことを突然言い出してみたり、少年のようにはしゃいで見せたりしていたけれど、こんな風に自分に楯突いたことはなかった。だから中舘は何となく、本当にそれは自身の嫌っている何の根拠もない勘という奴で、何となく鏡利を日本には帰したくなかった。だからわざとこんなことをしているのかと時折冷静になった頭で考えてみるが、結局鏡利が日本に何故執拗に帰ろうとしているのか、その理由が分からない限りそれに自分の一体どんな感情が引き摺られているのかも明確に出来ない。堂々巡りで結局朝を迎えて、それで終わりである。この話をしている時、分からないことが余計に中舘を苛々させている。どうして鏡利はそのわけを自分に話そうとしないのか、そうまでして帰った先で一体何をしているのか、中舘は如何しても知ることが出来ない。
「鏡利さん、正直に仰ってください」
「な、何だよ・・・3ヵ月後も駄目なの・・・?」
「一体日本で何をされているのですか」
厳しく響いた中舘の声が、鏡利の頬を一瞬引き攣らせる。それを中舘は見過ごさなかった。男はそこに罪悪感を付き纏わせている、それは一体何なのだろう。一体何が鏡利にそんな風にさせるのか。
「・・・それって、言わなきゃ駄目?」
「正直に仰ってくだされば、3ヵ月後の帰国、許可しても良いですよ」
「・・・―――」
それを聞いて鏡利は一瞬目を光らせたが、すぐに思い直したように深く溜め息を吐いて、座り心地の良さそうな黒の革張りの椅子に体を戻した。そしてそれを足の先で回転させて、後方に広がる異国に目をやった。中舘はその後頭部を、何も言わずに見つめている。
「軽蔑するよ、中舘」
「は?」
「俺のこときっと、軽蔑する」
深く呟かれた鏡利のそれに、中舘は何も言うことが出来ずにただ黙っていた。
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