177 / 302
やがて暮れるひととき Ⅰ
たっぷり7限までの授業をこなすと、ずっと同じ体勢で話を聞いていた体がぎしぎし痛むのが分かった。教壇で教師が今日は此処までと言いながら、自分の教科書類をとんとんと揃えるとそのまま出て行ってしまった。当番の女の子がのろのろと立ち上がって、黒板消しに手を伸ばす。消して良い?という女の子の甲高い声が教室中に響いて、その子の友達らしき女子生徒がそれに同じような声で返す。黒板の数式は端からみるみる消えていって、ところどころでまだだとか消さないでという声が上がる中、当番の子は早く帰りたいのか、それを迷惑そうに見つめている。紅夜は授業中にすっかりそれをノートに写し終わっていたので、騒がしい教室の空気の中でひとり、鞄の中に教科書とノートを詰め込むとそれを肩にかけて立ち上がった。振り返ると斜め後ろの席で、嵐が机に突っ伏している。これはまた眠っていたのかと、紅夜はそれを見ながら溜め息を吐く。なぜか高確率で嵐は授業を放棄して眠っているか、酷い時には1階のセンターで転がっている。それを許している保険医も如何かと思うが、これは完全にこの男が悪い。根元まで綺麗に染まっている金髪の頭をばしばし叩くと、嵐は何事か漏らしながら顔を上げた。額に一応開いていたらしいノートの端が跡になって残っている。
「帰るで、いつまで寝てんねん」
「あれー・・・もう授業終わったんだー」
「お前が寝てる間にな」
溜め息を吐きながら紅夜が呆れた口調で続けても、嵐は全くそれに応える様子がない。これがもう何十回も繰り返してきた、いつものことだからである。それなのにどうしたことか、嵐はこの進学校の中でも成績は上から数えたほうが早いくらいで、こんな格好でこの態度だけれど頭だけは良いのだった。ちゃんと家では勉強しているといつも言っているが、それが本当なのか嘘なのか紅夜には分からない。ただ結果だけ見ていれば、嵐自身の言い分がそのままそこに表れているようにしか思えなくて、それに毎回何故か口惜しい気持ちになる。勉強が嫌いと豪語している割に嵐はきちんとそれをこなしているようだったし、返ってきた成績がそれに見合えば相応に嬉しそうな顔をしている。紅夜がそれに眉を潜めながら矛盾点を指摘しても、嵐は何も言わずにただそんな紅夜のことを細かいというだけだった。まだ眠そうに欠伸をしている嵐を見ながら、紅夜はそれを順繰りに思い出していた。
紅夜に叩き起こされた嵐は、暫くいつももっと優しく起こせと言っているのに、その案を全く快諾してくれない紅夜への愚痴を本人の目の前で言い連ねていた。そして学校指定の鞄を開け、そこに適当に荷物を突っ込んでいる。数学の提出物が迫って来ているから、いつもは置いて帰るそれも仕方なく一緒に入れて、後は殆ど机の中に放置して鞄のチャックを閉める。そんな嵐の鞄は紅夜のものに比べれば随分軽く、薄っぺらい。京義のものといい勝負である。本人に確かめたことは一度もなかったが、時折眠っている京義の鞄を部屋まで持って上がったりすることがあったので、その時の鞄の重みから考えてみると、京義も殆ど教科書類を持ち帰っていないようだった。その平たい鞄を肩に引っ掛けて、ようやく嵐は立ち上がった。
「京義、音楽室かなぁ」
「あー・・・そうじゃねぇの」
少し前を歩く紅夜を追いかけながら、嵐がそれに適当に相槌を打った時だった。
「宮間くん!」
突然後ろから呼ばれて振り返ると、そこには隣のクラスで授業をしていたのか、担任である飯原の姿があった。嵐からは分からなかったけれど、その後ろで紅夜も何事かと近付いてくる飯原を見ていた。すると不意に良くない雰囲気を感じ取ったのか、嵐が舌打ちをするのが聞こえて、教師相手にその態度は一体何なのだと紅夜はそれにまた呆れ半分、眉を顰めることになる。
「宮間くん、ちょっと」
「何ですかぁ、今から帰るところなんすけど」
間延びした嵐の返答にそれを戒める意味を込めて、後ろから紅夜は嵐のコートの右肘あたりを引っ張った。しかし嵐は全く気付いていないのか、それに振り返ることはなかった。恐らく平常から飯原は嵐のことを良く思っていないのだろう、確かにこんな生徒は自分が先生だったら嫌だと紅夜も思うが、それをひた隠しにするのが大人で、また教職に就いた人間のすべきことなのではないかとも同時に思っている。そういう意味では飯原はそれを少々、紅夜に勘付かれるくらいその嫌悪感というものを前面に出し過ぎている。これはどちらも宜しくないと考えながら、紅夜はそっと嵐のコートから手を離した。
「江上先生が生徒指導室まで来なさいって」
「・・・はぁ?」
「伝えたわよ、それじゃ。気をつけて帰りなさい」
相変わらずつんつんとした物言いで、飯原は勝手にそれだけ言うとスカートを翻して颯爽と行ってしまった。最後の言葉は多分嵐にではなく、自分に言ったのだろうなと思いながら、紅夜はすっかり苦々しい顔になってしまった嵐の隣でそれを見送る。江上は生徒指導を担当している教師で、自棄に話の長い男だった。体罰に対して風当たりが強くなる昨今、まさか江上も手は出さないが、それなりに嫌味でねちっこい性格をしている。というのが嵐の言い分で、紅夜は江上と特別接点がないので、全校集会で他の教師に混ざって講堂の端に立っているところしか見たことがない。その男に嵐は時折、このようにして呼び出されているらしかった。どうせ話は髪や格好のことだろう。しかし嵐は度々の呼び出しにも屈しない強い意志で、聞こえは良いがこうなるともうただの意地の張り合いである。那岐高校の校風は緩いことで有名だったが、嵐はその緩い枠すら完全に飛び越えてしまっている。そんなことは考えずとも分かることで、多分この分では嵐も理解している。ちらりと隣の嵐を見やると、飯原の去ってしまった廊下の奥を見つめたまま、憎憎しげに下唇を噛んでいた。
「んだよ、アイツ。マジムカつく・・・」
「観念しぃ、大人しく話聞いといで」
「紅夜は知らねぇんだもん、アイツ話超長いんだぜ、日が暮れる!」
「しゃーないやろ、それにもう日なら落ちかかっとるわ」
苛々したまま、嵐が頭をがしがし掻く。7限が終わる頃には日が短いことも起因しているのだろうが、外は薄ぼんやりとして、所々の街頭の明かりをつけると、冷気を放ちはじめている。
「それにしてもうざってぇな、飯原」
「ちょっとなぁ・・・物言いが雑っちゅうか・・・なぁ」
「クソ、夏衣さんが来た時にはデレデレしていたくせに、いい大人がよ!」
「なんや、見てきたように言うなぁ・・・」
確かに嵐の空想に過ぎないそれが現実と大差ないことに、もう紅夜は苦笑いを浮かべることしか出来なかった。あの飯原が猫撫で声で話すところはじめて見て、正直面談どころではなかった。そして向こうも多分、紅夜の隣に鎮座するその見目麗しい男に完全に興味を持っていかれており、それは双方にとって最早面談ではなかった。夏衣だけはそのおかしな空気の中、きらきらと眩い光を放ち続けていたが、本人がどう思っていたかは定かではない。紅夜もその後それを夏衣に確かめることはしなかった。
「あー・・・面倒臭ぇな、このまま帰ってやろうかな・・・」
「あかんって、もっと酷いことになんで、行ってきぃや」
「だってさー・・・」
嵐が不機嫌に唇を尖らせるわけも分からんでもない。きっと毎回同じ話をされているのだろう。しかし一向に嵐の外見にもその授業態度にも改善は見られない。江上が懲りない代わりに、嵐も懲りる様子がないのだ。紅夜は特別それが悪いことだとは思っていない、ただ授業はもう少し真剣に受けても良いのではないかと思っているが、しかしそれと指導をすっぽかすのとでは話が違う。
「何だよ、紅夜ぁ・・・」
「ほな、俺は京義の様子見てくるから、ちゃんと指導室行くんやで」
渋々といった雰囲気のまま、嵐がそれに頷くのを見届けた紅夜は、階段の下で嵐と別れて多分今日もそこでピアノを弾いているだろう京義とともに帰るために、5階までの階段を上りはじめた。それにしても嵐に声がかかったということは、近日中に必ず京義も呼び出しされる羽目になるだろうことは目に見えている。
ともだちにシェアしよう!