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やがて暮れるひととき Ⅱ
特別教室ばかり集まる5階はいつ来ても無駄に静かだった。放課後になり4階では吹奏楽部が練習をはじめていることもあって、完全な静寂ではなかったが、そこはどこか周りから切り離された雰囲気を漂わせている。そこに小さく響くピアノの旋律に耳を澄ませながら、紅夜は廊下を無駄な音を立てないようにゆっくり歩く。これはもう癖みたいなもので、殆ど習慣化されていることのひとつだった。ひんやりとした廊下を進んで、第4音楽室の扉に手をかける。幾ら気をつけても、古い校舎の扉はガラガラと音を立ててしまう。それと同時に中で鳴っていた音が止んで、京義の視線がゆっくりと扉の前に立っている紅夜を捉える。その髪は脱色された灰色と白の中間色で、長い前髪の間からこちらを見ている目は不思議な緋色をしている。こんな格好をしている高校生は多分京義くらいなもので、これでは嵐以上に指導に呼び出されても文句は言えない。紅夜は京義と違うクラスだったから、京義が授業中一体どんな態度なのか分からないけれど、普段の行いを見ていれば嵐とそう大差ない、むしろ少々京義のほうが、度が過ぎているだろうことは安易に想像出来る。ただ嵐が授業を放棄してセンターで眠っている間、京義はここでピアノと向き合っているのだ。音にすれば随分と美しいが、やっていることは一緒である事実に、紅夜は溜め息を吐くしかない。相原くんからも何とか言ってくれないかと、そういえば以前飯原に言われたことがあったが、言ってどうにかなるものならとっくの昔にもう改善されているはずなのだ。それに愛想笑いを浮かべながら、唇は適当な相槌を打って、紅夜がその時考えていたことはそんなことだった。
「帰らへん?もう暗くなってきてんで」
その目に見つめられることに、暫くは慣れなかったけれど、今となっては時間がそれを解決してくれている。京義は紅夜の提案に、少しだけ迷ったようにピアノの上に乗ったままの楽譜を見やった。それは最近京義が購入したものらしく、ここで開いて練習しているのを紅夜は知っている。暖房のない教室の中で寒いのか、京義はコートを着たままだった。そこから控え目に伸びる手の甲が、冴え冴えとした白を兼ねながらすらりと伸びている。相変わらず他の事に興味はなさそうな京義ではあるが、それはいつも完璧に整えられてそこにある、それはこちらが辟易してしまうくらいに。きっとそうやって他のことにも気を配ることは京義にも出来るのだ、ただ京義がそこに何の利益も感じられないから、それを怠惰のままに放り出しているに過ぎない。理屈は分かるが、それにしても極端なそれに、紅夜は何も言わなかったが、何も言わないで多分呆れている。
京義の迷ったような視線が楽譜から紅夜に移って、紅夜は扉に凭れていた体をすっと起こした。
「もう少し練習したいから、先帰れよ」
そう呟いたかと思えば、次の瞬間には京義の視線は楽譜へと戻っていた。こういうことは何度かあった。紅夜はそう言う京義の側で勉強しながら時間を潰したり、言われるままに先にホテルに帰ったりした。今日は指導で呼び出されているので嵐も居ないし、京義もこう言うのだからそれにどうしようかと一瞬考えたが、提出期限が迫る数学の問題集をそういえばまだ終わらせていなかったことをふと思い出した。ここでやりながら京義を待っても良かったが、京義は同じ部屋の中に誰か居ると練習に集中出来ないらしい。それも考えれば京義の言うように、先に帰ったほうが良いのかもしれない。もう紅夜から外されていた視線は、鍵盤を撫でる自分の指へと集中されている。声の一つでも掛けようかと思ったが、そんな様子を見ているとそれすら京義の集中力を削いでしまいそうで、何だか申し訳なくなり紅夜は扉をそっと閉めると出て行った。
校舎を出ると予想通りすっかり日は落ち切って、辺りは闇に包まれていた。げんなりしたまま運動部が片付けをしているグラウンドを横目に、嵐は帰路に着くために歩き出した。結局江上がいつもの指導室に嵐を呼び出してした話とは、何十回も聞かされていることの延長に過ぎなかった。それを話半分流しながら聞いているふりをして、それでも中々終わらない話にいい加減苛々しはじめた時、閉門を知らせる鐘が鳴り響いてようやく話は終結へと向かった。暗いから気をつけて帰るようにと最後江上は付け足したが、誰のせいでこんな遅くまで残る羽目になっているのだと、嵐は思いながらもそれを飲み込んだ。それは勿論、これ以上その男と関わり合いになりたくなかったからである。思い出しても溜め息しか吐くことの出来ない、どう考えても無駄な時間だった。ベージュのチェックのマフラーをしっかりと首に巻きつけて、それに鼻から下は殆ど埋もれてしまっている。ちゃんと止めているはずなのにコートの端から風が入り込んでくるのに、眉を顰めながらいつもより早足で学校を後にした。吐いた息が白く残って、それが空へと吸い込まれていく風景にももう慣れた。最近になって冷え込みは一層酷くなっているような気しかしなくて、恨めしく思いながら毎日最低気温を更新し続ける天気予報を眺めている。
那岐高等学校は周りが住宅地であり比較的静かだったが、駅までの大通りに差し掛かると途端に騒がしくなる。そこまで辿り着くと、周りの電飾というものに照らされて街は随分明るかった。流石眠らない街だと思いながら、一度ずり落ちた鞄を肩に掛け直して、嵐は家までの道を急いだ。紅夜と京義はここから電車とバスを乗り継いで帰るのだが、嵐は徒歩で学校と家を行き来している。勿論偏差値のこともあったのだが、高校を那岐に決めたのは家から近かったという理由もある。お陰で始業ぎりぎりまで眠っていられるのが利点であり、またそれでも時々遅刻してしまうことを考えると他の高校にしなくて良かったと思うのだった。嵐がそんなことを思い巡らせながら、いつもより早足で行き交う人々を避けながら家に向かっている途中だった。
「―――!」
誰かが大声で何か叫んだような声と、鈍い音がした。ふと足を止めるが、相変わらず周りの人間は忙しそうに各々行くべきところに向かって歩いている。気のせいだったかと思い首を傾げつつ、嵐が歩を進めようとした時、やはり後方で何か耳障りな音がした。そのまま無視して帰っても良かったが、どうも気になる性分だったので、嵐はくるりとそこで方向を変えてもと来た道を戻り始めた。如何やら音と声は、嵐が通り過ぎた路地から聞こえてきているようだった。近付くたびに何だかそれが、一方的に怒鳴り散らしているということが分かった。誰かが喧嘩でもしているのだろうか、だとすれば巻き込まれるのは御免だと思いながらも、そっと路地を覗いてみる。自棄に明るい大通りとは違って、そこはそこだけまるで光が届かないような闇色をしていた。そこに3、4人、南海洋高校の制服を着た生徒が立っている。やはり喧嘩だったらしく、その足元には誰か倒れているようだった。南海洋は那岐高校と比較的近い位置にある学校だったが、偏差値には大きな差があり、南海洋は偏差値が低いだけそこに所属する学生の質も落ちる。良く他の高校とトラブルを起こして何人もの生徒が補導されたり、警察に厄介になったりしているらしい。兎も角関わり合いにならないことが先決と、嵐はそれを見なかったことにして家までの道を急ぐことに決めた。南海洋と何か揉め事を起こして、停学処分にでもなったらたまったものではない。那岐高校では派手な格好が珍しいのか不良扱いされている嵐だったが、それはただのファッションの一環で、彼らのように自らの強さを誇示するためのものではない。それをなぜか生徒指導の教師は一向に理解してくれる気配がないのだった。不意のことでそれを思い出しながら、嵐がひとつ舌打ちをした時だった。
「立てよ、薄野!」
後方で鈍い音とともに誰かが叫んだのが聞こえた。
「寝てんじゃねぇぞ、コラ!」
耳の奥にざらざらと違和感を残す鈍い音が響いて、嵐は慌てて踵を返した。中心の金髪の男が先ほど足元に倒れていた男の制服の首元を掴んで揺さぶっている。ぐらぐらと不安定に揺れる首ががくんと傾いて、灰色の髪が肌の上をさらさら流れて、男の表情が露になる。
「薄野・・・?」
見間違うはずがない。この辺りの高校生で、そんな髪の色をしているのは京義くらいなものだろう。それに男が掴んでいる首元には、嵐と同色のネクタイが無造作に巻きつけられている。京義の意識はもうそこにないのか、赤い目は閉じられており、代わりにその形のいい唇からどろりと鮮血が流れ出るのが見えた。周りの男達が一斉に笑い声を上げて、それが嵐の背筋を気持ち悪い温度で撫でた。男が不意に手を離す、すると支えを失った京義の体はまるで意志などそこには宿っていないかのように、がくりと膝から崩れて落ちていった。道端に転がる京義の頭を男のうちのひとりが踏みつけるのが見えたが、京義は全くそれに反応しなかった。
「もうコイツ落ちたんじゃねぇ」
「はは、たいしたことなかったね」
「それじゃ、そろそろ帰りますかー」
甲高い笑い声を上げながら、誰かが京義の頭を蹴り上げた。それに逆らうことなく暗い路地の中をごろごろと転がると、京義はやがて動かなくなった。男達は各々何か言いながら、もうそれには興味を失ったのか、くるりと京義に背を向けた。
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