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やがて暮れるひととき Ⅲ

「何だ、テメェ」 4人のどう見てもガラの悪い南海洋の生徒の後ろに、京義はいつにも増して無防備な格好で転がっていた。そう呼びかけられるまで、嵐は彼らの視線がいつの間にか自分に注がれていることに、全く気付かなかった。それよりも京義の安否のほうを、執拗に心配していたからだ。しかし目付きの悪い男4人を目の前に、どうやら心配しなければならないのは、今後の自分の身の振り方らしい。目の奥で倒れたままの京義の姿がちらちらと写る。完全に顔を引き攣らせたまま、無意識のうちに一歩足を後退させる。 「お前も那岐高?あぁ、もしかしてオトモダチかな」 「単身乗り込んで来るなんてユウカーン」 「あれ、お前らのヘッドだろ?」 端の赤い髪の男が、振り返らずに指だけで京義のことを指す。 「は?」 「ヘッドがあれじゃ、お前もたいしたことないな」 言いながら笑って、周りの男達も何がおかしいのか、それにまるで練習でもして合わせていたかのような自然さで笑い声を上げる。そうして一頻り嘲笑を浮かべた後、金髪の男は指の骨をぱきぱき小気味いい音を立てて鳴らした。南海洋の生徒と喧嘩して勝てるようなポテンシャルを、まさか自分が備えていないことを嵐は良く知っている。見た目がどんなに派手で奇抜だったとしても、こちらとら腐っても進学校として有名な那岐高等学校の生徒なのである。大人しく鉛筆握っている時間のほうが、遥かに長いのである。まして喧嘩など、はっきり言ってしたことがない。無論やり方も分からない。間もなく臨戦態勢に入ろうかという男達をそこに残して、嵐はくるりと踵を返すと急いで大通りまで戻った。もう嵐に残された選択肢は、その一つだった。すぐさま南海洋の生徒達がにやにや笑いを顔に貼り付けたまま、追いかけてくる。 「おまわりさーん!助けてくださーい!」 口の周りに手を宛がってよく声が通るようにし、嵐は大通りの中央に立ち大声でそう叫んだ。周りを行き交う大人たちが一体何事かと、嵐のほうに訝しげで迷惑そうな視線を送る。流石に恥ずかしかったが、今は形振り構っている場合ではない。いつの間にか追いついていた南海洋の生徒達も、突拍子もなく嵐がそんなことを言い出すものだから、先ほどの勢いを急に沈めるとその場でお互いの顔を伺いはじめた。補導などもしかしたらされ慣れているのかもしれないが、彼らもまた警察に厄介になるのは避けたいのだろう。 「オイ、どうする・・・」 「流石にサツはヤべぇだろ・・・」 そうして男達が怯んでいる隙に、更に嵐は背伸びをして、駅の方向に向かって大きく手を振った。 「こっちでーす!」 それを見た金髪の男が、あからさまに不味いといった顔になる。まさかすぐ側に警官が居たとは思わなかったのだろう。誰かがそれとは逆方向に走り出すのに、残りの男達もそれに習って嵐をそこに残したまま逃げ出していった。それを見届けると、嵐はその場でひとつふうと肩で息を吐いた。勿論そんなに都合よく、周りに警官が居るわけではなく、それは咄嗟に思いついた、ただのはったりに過ぎなかったのだが、その場凌ぎにしては余りにも効果覿面だった。そうして騒動が鎮静化して南海洋の生徒が居なくなってもまだ、周りを歩いていた状況の良く分かっていない大人たちは、ひとりその場に残った嵐を訝しそうな目で見ている。その視線から逃げるようにして元の薄暗い路地に戻ると、そこには先刻と同じ場所に同じ格好で京義が倒れていた。唇の端から流れ出た鮮血だけがこの暗闇に不用意な色を放って、コンクリートを汚している。嵐はそれを見ながら何とも言い知れない気持ちになったが、それよりもまず京義の状態の確認が先決である。 「オイ、薄野!薄野、大丈夫か!」 側にしゃがんで名前を呼びながら、既に青紫色に腫れ上がっているその頬を軽く叩いてみたが、京義は全くの無反応だった。流石に死ぬようなことはないだろうとは思ったが、嵐は青ざめたまま京義の右腕を取って殆ど担ぐようにして京義を持ち上げた。ずしりと意識を失った体が重く圧し掛かる。そのまま京義を引き摺るようにして、嵐はゆっくりと学校までの道を戻りはじめた。 ひとひとりというのは随分と重い荷物だった。京義が見た目より華奢なのを知ってはいたが、自分と体重が何十キロも変わるわけではない。舐め切っていたと思いながらも嵐はひとつも休むことなく、夜の雰囲気を醸し出しはじめる学校まで舞い戻っていた。本来ならば上履きに履き替えなければならない廊下を、土のついたスニーカーのまま踏みしめながら進む。1階にそれがあって良かったと思いながら、角を曲がるとその部屋の前で唯が丁度センターに鍵をかけているところだった。 「ゆ、ゆい、ちゃん!」 慌てて嵐は声を絞り出し、男の手を止めようとした。しかし男は鍵をガチャリと閉めてから、ゆっくりと顔を上げた。嵐と目が合い一瞬嫌そうな顔をしたが、その背中に乗っている京義にそれが移り、今度はそれが探るような視線になった。嵐はそんなことには構わず、京義を引き摺るようにしてセンターの前まで連れてきた。そしてそこにゆっくりと京義を降ろす。重みを失った体は随分と楽になったが、京義は依然血の気のない肌の色をしたまま、目を閉じてピクリとも動かない。 「よ、良かった・・・まだ居て・・・」 「残念、これから帰るところだ」 「ちょっと待ってくれよ、開けてくれるよな。ホラ、見ろよ、薄野。どう見てもヤバイだろ、これ!」 心底唯は不快そうな顔をしながらも、屈んで京義の長い前髪を指先で避けた。腫れ上がっているのは頬ばかりではなく、右目の上も盛大に紫色に染まっている。唇を引っ張ると綺麗に並んだ歯の間にびっしりと赤いものがこびりついて、それが異臭を放っている。確かめるようにそこに屈んだままの格好で、唯は立っている嵐を見上げた。その嵐に外傷は見当たらないが、血の気が完全に引いてしまっている青白い顔をして、眼球を忙しなく動かしている。もう完全に下校時間は過ぎているし、校舎の中に生徒は残っていないだろう。それどころか時計を見るあたり、教員ですら残っているかどうか怪しい時間帯だ。 「明日来いよ、時計を良く見ろ、もう勤務時間外だ」 溜め息を吐きながら唯が小声でぼそぼそとそう漏らすのに、嵐はかっと目を見開いた。 「そんなこと言ってる場合かよ!」 「・・・誰が時間外労働の手当てをくれるんだ。お前か?」 「ふざけんなって!唯ちゃん!」 殆ど怒鳴りながら、嵐が座ったままの唯の肩を掴んだ時だった。微動にしなかった京義が何事か呻き声を漏らしながら、首をずずっと動かした。それに双方ともはっとして、完全にそれどころではなくなった嵐は唯の肩を離して、京義の凭れかかっているすぐ側の壁に手を付いた。 「オイ、薄野!大丈夫か!」 しかしそれに答えはなく、京義は依然動かないままである。それが分かると、嵐は自棄に悲痛そうに眉を顰めた。それを見ながら唯はひとつ息を吐くと、鬱陶しそうに黒い髪をぐしゃぐしゃと掻きながら立ち上がった。入れ替わりに嵐が京義の側に座り込む。唯はコートのポケットに手を入れて、先刻閉めたばかりのセンターの鍵を取り出し、それを鍵穴に酷く投げやりな動作で突っ込んだ。がちがちという音に反応して嵐がゆっくり顔を上げる。その視界の中で、唯は依然不快感を露にした表情のまま、閉めたはずの扉を開けていた。

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