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やがて暮れるひととき Ⅳ
「唯ちゃん・・・!」
目の前で手を組み、きらきらと嵐が目を輝かせるのに、唯は分かり易く舌打ちをした。殆ど仕方なしとはいえ、どうも自分はこの男及び、ここの学生には甘過ぎるという自覚がある。名前の後にちゃん付けは止めろと言っているのに、一向に誰にもそれを聞き入れて貰っていない現状が、何よりそれを如実に示している。いきなり手持ち無沙汰になった手で頭をがしがし掻くと、いつの間にか唯はセンターの中に戻っていた。
「5秒で閉めるぞ」
「ちょ、待てよ。運ぶの手伝ってくれよ」
「知らん。いーち、にー・・・」
半開きになった扉を手で押えて、京義を同じ要領で持ち上げると嵐はスニーカーをその場に脱いで、センターへと踏み込んだ。
「んで・・・そんな子どもみたいなこと、すんだよ・・・」
「こっち持って来い、ここに寝かせろ」
一度下ろしたはずの京義の重みに首から喉を潰されながら、殆ど呆れた声で嵐が苦しそうに呻くように言う。しかし唯は全くそれに応えた様子もなく、さらりとあくまで自然に聞かなかったふりをする。そしてベッドの間を仕切っていた薄青色のカーテンを開いて、ベッドの上に被さっていた毛布を片手で退けた。完璧に洗濯されたシーツが汚れるかと思ったが、殆どそれは汚されるためにそこについているようなものだったので、それにはとっくの昔に観念している。あくまで命令口調の唯にもっと文句は言いたかったが、嵐はそれ以上の言葉を飲み込んで京義を引き摺り、ベッドの上に下ろした。嵐は一度肩を回すと、勝手に丸い椅子を引っ張ってきてベッドの側に置き、そこに座った。京義は相変わらず意識を手放して、そこで眠っている。眠っているだけならいつもと何ら変わらないが、それだけに胸の奥がざわざわしている。その後方で唯は留めたばかりのコートのボタンを外してロッカーに突っ込むと、代わりに白衣を取り出してそれに腕を通した。嵐が急かすような視線を送ってくるので、それに苛々しながらポケットを探ってわざと煙草を取り出し、それに火をつける。
「唯ちゃん・・・」
「焦るなよ、死んでるわけじゃないだろ」
「だけどさぁ・・・」
もうそれに怒鳴る気力もなく、机に半分腰掛けたまま悠長に煙を燻らせる唯を見ながら、嵐はひとつ大きな溜め息を吐く。ややあって唯はそれを机の上の銀色の灰皿に押し付けて火を消すと、それからようやくベッドの際まで来た。京義は相変わらず無防備過ぎる姿でそこに横たわっており、意識が戻る気配すら見せない。腫れていない左目蓋を上に引き上げると、そこに薄っすらと濡れた赤い虹彩とそれに触発されたように周りは白い。いつも見ているはずなのだが、それが今日に限って何だか自棄に生々しく見えて、思わず嵐は目を反らした。唯は暫く目蓋を引っ張ったり、唇を引っ張ったりしていたが、屈めていた体を起こしてふうと息を吐いた。それは僅かにまだ煙の残っているような匂いがしている。
「どうなの、大丈夫なわけ?」
「大丈夫だろ、見れば分かる」
「そりゃ唯ちゃんだからだろ」
相変わらずわざとなのか天然なのか、少々的のずれた答えを返す唯にげんなりしながら嵐はそう言い返す。適当にしか聞こえない唯のそれを鵜呑みにして良いのかどうか分からなかったが、取り敢えずこの分ではたいしたことはないのだろうと、その頃になってようやく安堵出来た。
その間に唯はさくさくと京義の着ていたブレザーを剥ぎ取り、多分南海洋の生徒に引っ張られていたため妙な形に結ばれたネクタイを解いて、隣の開いているベッドのほうに無造作に放り投げた。白いシャツには飛び散った血が所々を赤黒く染めており、それに嵐はまたはらはらと心拍数を高めることになったが、唯はそんなものは見慣れているのか全く気にする様子もなく、ボタンが飛んでいる箇所もあったシャツを少々乱暴とも思える手付きで脱がして、いつの間にかベッドの上で眠っている京義の上半身を裸にしていた。そうして改めて京義の体を見てみると下腹部が不自然に赤く腫れており、顔同様執拗に殴られたことが見て取れる。出来ればそれからは目を反らしたかったが、そういうわけにもいかずに、嵐は顔を青く染めながら身を乗り出していた。
「・・・ホントにこれ・・・大丈夫なのかよ・・・」
「思ったより派手にやられているようだな」
「オイ!唯ちゃん!」
「慌てるな、多分臓器はなんともないはずだ」
「多分って何だよ、慌てるだろうが!」
完全に血の気が引き切った顔で嵐が反論するのに、相変わらず唯はマイペースを崩さずに、本気なのかまた冗談なのか分からぬことを、デフォルトの無表情のままつらつらと言い連ねている。その唯の指先が京義のことを全く思いやる様子を見せずに腫れている部位をついっと撫でるのに、依然として京義の意識は閉じられたままであった。それを確認するとふうとひとつ息を吐いて、唯はおもむろにベッドから離れた。嵐は言いたいことも満足に言えずに下唇を噛みながらその背中を見送って、自身を落ち着けるためにも椅子に腰を戻した。唯はロッカーの隣にある薬品棚から茶褐色のビンを取り出し、それの蓋を開いて机の上に乗せた。独特の消毒液臭い匂いが、もともとセンターを支配してはいたが、一層酷くなって鼻腔を突く。大振りのピンセットを使って、ビンの中からオキシドールのたっぷり染み込んだ丸い綿を取り出すと、京義の顔にかかっている髪を退かせると、切れて血の滲んでいる目の上と、唇の端を其れで二三度叩いた。すぐさま綿のほうに血の色が移るのに、酷くぞんざいにゴミ箱に放り込んだ。ピンセットは消毒液の中に突っ込み、開けたままだったビンの蓋を閉める。
「宮間」
「な、何だよ」
不意に呼ばれて、嵐が顔を上げる。唯が真剣に治療をしてくれているらしくて、相変わらず京義は目覚めなかったが、何だか安心し切っていた。
「冷蔵庫から湿布取ってこい」
「・・・わ、分かった」
薄いビニールで出来たクリーム色の手袋を引っ張りながら、唯が全く視線をやらずに言うのに、嵐は慌てて立ち上がりながら返事をする。唯が使っているそこだけ自棄に乱雑に散らかったままの机の横に、小さめの冷蔵庫があり、そこにアイスノンや湿布が入っていることを知っていた。箱ごとそれを取り出し戻ると、唯は手袋をした指で京義の口を殆ど無理矢理抉じ開けているところだった。
「・・・取って来たけど」
「そこ置いとけ」
ずるりと京義の口から引き抜かれた唯の指に、真っ赤な血がこびりついているのが見えて、思わず嵐はそれから目を反らす。
「血」
「ん?」
「かなり出てるけど・・・大丈夫なのかよ・・・」
「あぁ、これは自分で噛み切ったみたいだな。後奥歯が一本抜けそうだ」
「うわ・・・」
どう考えても大丈夫そうではない。思わず嵐が顔を顰めるのに、唯は表情を変えずにそれを鼻で笑う。汚れた手袋をぎちぎちいわせながら外すと、それも同様にゴミ箱に放り込まれる。机の上の箱から良く冷えた湿布を取り出し、赤黒く変色しかかっている下腹部にそれを手際良く貼り付ける。良く切れる大振りの鋏で湿布を二等分にすると、それはそのまま腫れ上がっている頬に貼り付けられた。そうしててきぱきと唯は、ガーゼやら包帯やらで京義の体を覆っていく。嵐はそれをベッドの側の丸い回転椅子に座ったまま、ただぼんやりと眺めていた。
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