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やがて暮れるひととき Ⅴ
「なぁ、唯ちゃん」
「あ?」
一通り京義の体を引っくり返しながら、ようやく包帯を巻きつけ終わったところだった。結構な重労働がすっかり終了してしまってから、そこらの病院に担ぎ込んだほうが早かったことに、気付いてしまったら後はげんなりするしかなかった。いつもの座り心地の悪い椅子に座って、この状況に少しでも癒されるために、唯は2本目の煙草に躊躇なく火を放った。ベッドに横になったまま未だ微動にしない京義が、目を覚ます様子が一向にないので、下手に動かすことも出来ずに唯も自然にここを動くことを許されず、つまり帰ることが出来ない。嵐は兎も角、自分はやることさえやったらさっさと帰らせて欲しいのだが、それを口に出そうものなら、職務怠慢と罵られるのが目に見えている。今更そんなことはどちらでも良かったが、取り敢えずその時はまだ唯はそれに文句を言わずに黙って、京義が目覚めるのを机の側でじっと待っていた。
「ここ、鎖骨のとこ、ここもこれ、内出血だろ?」
変なところで自棄に真面目な嵐は心配そうに眉尻を下げたまま、先刻から状態の変わらない京義のベッドの側にいついた状態で、はらはらと様子を見守っている。唐突にそう嵐が声を上げるのに、唯が振り返ると嵐の指は京義の鎖骨付近を差していた。回転椅子を怠慢のまま足で動かし、ずるずるとベッドに近付いて、唯も京義の眠っているベッドを覗き込む。確かに嵐の言うように、そこには点々と青紫色に内出血が広がっている。
「あぁ、そうだけど。でもこれは平気だろ」
「何で?骨とか折れてないよな、まさか」
「いや、これどう見てもキスマークだし」
煙を吐きながらさらりと唯が言うその隣で、嵐は指を指した格好のまま固まってしまった。
「・・・キ、キスマーク・・・」
「お盛んなんだろ、最近の高校生は」
「・・・」
性欲上等だとかなんだとか、唯が殆ど思いつきのまま、ぼろぼろとどうでも良いことを煙草の煙とともに吐き出す隣で、嵐は何だか見てはいけないものを見てしまったような気分で、今までとは色々違う意味で京義の鎖骨にこれ見よがしに散りばめられたそれから目を反らした。それにしても女なんか興味がないと言っていたような気がするが、それが一体どういう風の吹き回しなのだろう。そこまで考えて嵐ははたと気付いた。もしかしたら言っていたのは紅夜のほうで、京義はそれにただ黙っていただけではないのだろうか、そうでなくても京義は黙っていることが多い。そんな話をそういえば、京義から聞かされたことなどなかったのかもしれない。3人で居ても殆ど喋っているのは紅夜と嵐で、京義は紅夜に話を振られてようやく二言三言話す程度で、それ以外は往々にしてふたりの少し後方を歩き、眠そうに目を擦っている。そういえばはじめのころ執拗に紅夜が言っていたが、京義は容姿に限ってやたらと整っているのだった。今は頭にはぐるぐると包帯を巻かれて、ネットを被せられており、頬には目立つ白の湿布、腫れた目の上はガーゼで覆われているが、それでも京義は、むしろより一層その白は近付き難い雰囲気の中の、同年齢らしからぬ妙な色気を醸し出しているように見えた。
「・・・か、カノジョとか・・・居たんだな・・・」
「そんなこと今どうでも良いだろ、何でこんなにぼろぼろなんだよ、薄野は」
今までどうでも良いことを散々喚き散らしておいてと、嵐は思ったしそれは正当な言い分だったが、確かに今京義の彼女の有無を確認している場合ではないことは、如何考えても明らかだった。ちらりと唯のほうを見やると、机の上に足を乗せるというこの非常時に全く思わしくない態度のまま、すぱすぱと煙を軽快に吐き出している。その駄目な大人に頼ることをすっぱり諦めて嵐は、京義の伏せられた睫毛辺りに目をやった。
「分かんねぇよ、俺が見つけたときはもうボコられてたんだ」
「あんな格好じゃぁな、目を付けてくださいと言わんばかりだ」
「・・・でも何で・・・ーーー」
不意に嵐が中途半端に言葉を切って、唯は片足を机から降ろした。ベッドがぎしぎしと歪んだ頼りない音を立てている。その上で京義が思うようには動かぬ体を、無意識のまま反転させようとしているらしかった。ガタンと余計な音を立てて、急に嵐が立ち上がる。それを唯は悠長に後方から眺めていた。
「大丈夫か、薄野」
「・・・ん・・・」
切羽詰ったような嵐の呼びかけに、京義は殆ど吐息のみで答えた。それを聞きながら乗せたままだった右足も下ろして、相変わらず緩慢な動作で唯は立ち上がり、そのままベッドに近寄った。見下ろせばそこで、京義はガーゼで覆われていない右目の眼球だけを不安定に動かしていた。
「・・・ここ・・・」
血が消毒液とともに滲んだ唇が開く。両側から引っ張られたような痛みが走り、京義の眉間には一瞬にして皺が刻まれた。声は殆ど聞き取れずに、唇ばかりが先走っているのか震えるように動き、消え入りそうになりながら、何とかそれだけがふたりの鼓膜に届く。
「保健室だ」
「センターだろ」
「今そんなことは良いんだよ!」
相変わらず的を射ない唯ののんびりとした回答に、嵐は苛々したまま視線だけで唯を窘める。それを完全に無視した格好で、唯は唇から煙草を離そうとしないし、自らのスタンスを変えるわけでもない。それに苛々が全く消化されずに遣り切れない気持ちのまま、未だ現状が良く分かっていないのか、自棄にぼうっとした目をしている京義を再度見下ろす。ふうと唯が上空で息を吐いて、その灰色が目の前を一瞬遮った。
「どこか痛いところは?」
酷く傲慢に唯がそう尋ねる。それもそのはずで、その頃になると勤務時間外どころではなかったからだ。兎角唯は早く帰りたくて、そのことばかりを先刻から気にしている。京義さえ目が覚めれば帰ることが出来ると思っていたが、それとは逆に京義がいつまでも寝ているから、一向に帰ることが出来ないのだとも思っており、その時の不機嫌な声はその双方を、特に後者を強く描写したものだった。
「・・・指・・・」
「指?唯ちゃん、オイ。折れてんじゃねぇだろうな!」
「何で俺がキレられなきゃならないんだ」
それに京義が呟くように答えるのに、唯は眉間に皺を寄せる。頭や腹なら話は別だが、どうして今指なのか。煩い嵐を黙らせて、不思議に思いながらも、しかし本人が言うならばきっと指が痛いのだろう。嵐の言うようにもしかしたら一本や二本折れてでもいるのかと考えながら、無防備に放り出されていた左手を持ち上げる。痛みでも走ったのか、京義の顔が一瞬苦悶に歪む。
「腫れているな、変な風に手を付いたりしたんだろ。指じゃなくて手首、捻挫だな」
殆ど表情の無かった京義の目が、それに一瞬鋭くなる。それに無意味な詮索はしない。唯は机の上に放置していたせいで、もう冷たくなくなっていた湿布を箱から取り出し、赤黒く腫れてしまっている手首に巻いた。右手も同じように確認したが、右には腫れが見られなかった。もう良いだろう、そろそろ帰してくれと言いたい唇に煙草を挟んだまま、器用に煙だけ歯の間から吐き出して、毒を含んだそれはそこ等をどんどん灰色に染めていく。京義はそれに暫く何も言わなかった。ただ不安定に揺れていた完全に色素異常の赤い虹彩には、その頃になるとしっかりした意志が宿っているように見えた。帰れるのは何時頃になるのか、完璧な闇に支配されつつある窓の外を見ながら、唯は煙とともに多くの二酸化炭素も吐き出した。
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