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やがて暮れるひととき Ⅵ

相変わらず目の色は沈んだままだった。それを器用に感じ取って、嵐が心配そうに唯に視線をやる。それを痛いほど感じながら、唯はフィルターを噛んで、ふうと煙を吐き出した。 「まぁ、どっちにしろ病院でレントゲン取って貰うんだな」 それに京義は答えなかった。辺りはずっと静かだったけれど、こうして3人が3人とも黙っていると、静寂が闇の中変に浮き彫りになって、胸の奥がざわざわと煩い。嵐が座っている丸椅子をずずっと動かして、床と擦れる嫌な音が響いた。それに眉を顰めたまま、唯は自分の定位置に戻る。 「なぁ、薄野。何でお前南海洋の連中なんかに絡まれてたんだよ・・・」 俯いたまま嵐が酷く小声でそう言うのに、ベッドの上でぼんやりと天井を見つめる京義は眼球だけをついと動かした。しかし京義の反応は僅かにそれだけで、その唇が開かれることは無かった。 「何はなくとも少しはやり返したのか?お前その外見で喧嘩弱いとか、正直がっかりだぞ」 「何で唯ちゃんががっかりすんだよ・・・」 「・・・―――」 言いながら自分も腕っ節には自信が全くないことを、嵐は思い知らされる。しかし煙草の煙を怪我人の隣ですぱすぱ吐き出しているこの男だって、物理的手段に訴えかけるような人間にはとても見えない。それは別段良い意味ではなく、ただそんな自らの手を汚すような不器用な手段を取らなくとも、他の方法で如何にかしてしまいそうな、決して口には出さないが、唯にはどうもそういう不透明なところがあると嵐はつくづく思っている。京義にしてもそうだろう。確かにこの灰色とも白とも言えない妙な髪色に、異彩を放つ赤い色の瞳、それだけで充分京義は目立つ存在だった。しかし本人は日長眠っていることが非常に多いことを除けば、至って真面目な高校生なのだと言わざるを得ない。だがそれは京義の側に張り付いて、一日中京義を観察してはじめて明らかになることで、ファーストインプレッションでは中々露見に至らない。一体如何いう経緯で、京義が絡まれることになったのか、それを知ることは出来ないが、思えばそれは安易に想像出来ることだった。きっと殆ど目の開いていない状態で、ふらふらと駅までの道を歩いていたのだろう。そこに運悪く南海洋の生徒と擦れ違いでもして、更に悪くすれば肩でも当たって因縁つけられたとか、紐解いてみればその程度のことなのだろう。 「薄野は殴ったりしてねぇよ、多分。あいつら全員どこも怪我してなかったみたいだし・・・」 「ふーん・・・」 「何で微妙にがっかりしてるんだってば。な、薄野、殴ったりしねぇよな、お前は」 当時それどころではなかった嵐は、それをきちんと確認したわけではなかったが、どう見てもあの時4人は4人とも無傷のように見えた。それをベッドで横たわったままの京義に確認すると、京義はその赤い目を動かして、ベッドをぎしぎし軋ませながら、動かない体を無理にぐるりと反転させ嵐に背を向けた。 「殴ってねぇよ」 そうして一言、小さい声で京義は答える。体のことは心配だったが、嵐はそれを聞いて下がりっぱなしだった眉尻を少し上げた。 「・・・良かった、ホラ見ろよ、唯ちゃん」 「何だ、やられっ放しか」 「だからそういうこと言うなって!」 「・・・―――」 ふたりのやり取りを背中で聞きながら、京義は目の前の完璧に清潔な状態に保たれているシーツを、痛くないほうの右手でぎゅっと握った。 「俺の手は、ピアノを弾く手なんだ」 相変わらず京義の声は辺りの静寂よりも、むしろそれに溶け出すのではないかと思うほどに静かに響いて、しかし耳にはしっかりと届けられる不思議な声だった。そしてその中に含まれる真剣さと妙な物悲しさに、嵐は何も言えなくなってしまった。それには流石にいつもふざけている、もしくは本人は至って真面目に言っているのかもしれないが、傍目から見るとどうしてもふざけているようにしか見えない唯も黙った。 「その手で・・・人を、殴れるかよ・・・」 押し潰されたような、殆ど呻くような声に、誰も何も答えることが出来なかった。京義の手は何でもない、他の何の用途のためでもない。そのためだけにここについている。指を痛めてしまうことを恐れて、結局どこもガード出来なかった。それなのにまさかその手で、誰か他の人間を殴ることが出来ようか。そんなことをするくらいだったら、殴られているほうが余程精神的負荷が掛からなかった。握った手の感覚だけが、京義に希望を与え続けている。だとすればそれは痛みの奥にある、微かな光にしか見えないのだった。 外の風は随分と冷たいものへと変わっていた。当たり前だが完全な闇に食われてしまった辺りの風景は、昼間のそれとは随分違って、それに温度とは関係なく身震いする。 「じゃぁな、気をつけて帰れよ。特に薄野、お前後でちゃんと病院行け」 「えぇ、はぁ?」 そうして唯が颯爽と手を上げ、外灯の明かりに照らされた駐車場に向かって去っていく。それに完全に不意をつかれた嵐は、過剰とも思える大声を出す。不快感を露にした表情を浮かべ、唯が面倒臭そうにオレンジ色にぼんやりと明るいそこで立ち止まって振り返った。 「何だ、まだ何かあるのか」 「ちょっと、薄野これなんだぜ、どうやって帰るんだろ、歩いて?」 嵐が殆ど怒鳴りながら指差した後方で、京義は制服を着て階段に腰掛けてじっとしていた。頭も顔もその不自然な白に侵食されており、センターからここまで殆ど嵐に引き摺られるようにして連れて来られたのだった。それもこれも唯がもういい加減に帰りたいと駄々を捏ねはじめたからで、しかしそれでなくてももう時刻は廻り回って10時を少し過ぎてしまっている。勿論嵐は時間も遅いし京義もこんな状態なので、唯が車で家まで送ってくれるものだろうと踏んでいた。しかし唯のほうは全くそんな予想はしていなかったのか、嵐が何に一体驚いているのかいまいち分かっていない顔で、ただ首を傾げる。 「・・・さぁ、そんなこと俺に聞かれても」 「送るだろ、普通!」 「お前はどこまで俺に迷惑をかけたら気が済むんだ」 呆れた顔で唯は溜め息を吐いたが、確かにそれはそうかもしれないが、こんな怪我人を放って置いてひとりでほいほい帰ろうとしているその神経こそ疑わしくて、嵐はそれに申し訳ない気持ちなど微塵も持っていなかった。盛大に舌打ちをしながらも、観念したのか唯はこちらに背を向け歩き出す。それを見送った後嵐は、京義のところまで一旦戻って、右腕を掴んでゆっくり立たせた。京義は自棄に素直にそれに従う。 「薄野ん家、紅夜と一緒のところだからさー」 「・・・え?」 「ホラ、何とかホテルって言う・・・夏衣さんの」 それを耳に入れるや否や、唯は勢い良く振り返った。そこに殆ど京義を担ぎ上げた格好で、嵐が立っている。 「・・・やっぱお前ら自力で帰れ」

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