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やがて暮れるひととき Ⅶ

全くもってあの保険医は人間らしくない。唯は何を思ったのか突然意見を翻すと、本当にそのまま自分だけ車に乗って帰ってしまった。それを一体京義がどんな風に思っていたのかは分からないが、寒々しい外の空気の中に残された嵐が、ひとりで途方に暮れたのは言うまでもない。仕方なく携帯を取り出して、自宅の番号を選択する。この時間帯だと、少々微妙だったが、どちらかは帰っているだろうと思いつつ電話するも、結局それに出たのは宮間家の2代目のハウスキーパーである上園だった。電話の先が嵐と分かると、自棄に明るい声で上園が其れに対応する。京義の見た目のことあり、怪我状況のこともある。出来れば余り騒ぎにはしたくない。タクシーも考えたが、仕方なく嵐は上園に学校まで車を回してくれるように頼んで、電話を切った。寒い上に静かな学校の中、嵐は携帯を握り締めてこれもそれも全部唯のせいだと労働時間外に働かせたことを棚に上げて、恨めしい気持ちで一杯だった。それに本人は酷く嫌そうな顔をしていたが、基本的に勤務中に居眠りをしているような男だ。それに給料が税金から出ていると思うと、心外でならない。あぁでもないこうでもないと唯の悪徳ぶりを端から上げていると、そのうちに唯が開けたまま出て行った裏門のほうから車が一台、やってくるのが見えた。 「あ、来た」 黙ったまま俯いて座っている京義の隣に、同じように腰を据えていた嵐は、そのライトの光に向かって立ち上がり、手を振った。広く今は一台も車の止まっていない駐車場で車は、くるりと向きを変え、やがてエンジン音が鳴り止んだ。がちりと音がして運転席から男がひとり出てくる。服の上から黄色のエプロンをして、その上に更にレザーブルゾンを羽織った男は、暗いから良かったようなものの、どう考えてもアンバランスの上に成り立っている。嵐もそれが分かったのか、何故か嬉しそうに近付いてくる上園を見ながら、顔を引き攣らせた。おそらく京義はそのようなことを気にしている場合でもないだろうし、普段でも他人には無関心が過ぎるほどだったが、それにしても友達には見せたくない姿だった。 「嵐くん!」 「・・・ちょ・・・」 なぜエプロンをそのまま着けてきたのか、それだけ上園が焦って来てくれたということがすぐに嵐には分からなくて、それに何と言ったら良いのか分からないまま、微妙な制止の言葉が口から漏れる。 「どうしたの、全然帰ってこないから心配してたんだよ!」 「いや・・・御免、連絡しなくて、色々ばたばたしててさ・・・」 しかし今、上園の格好に駄目出ししている場合ではない。嵐は振り返って階段のところに座ったままの京義を見やった。ガーゼで隠れていないほうの目は開いていないが、気を失っているわけではないことは知っている。取り敢えず上園への説明は後回しにして、車の後部座席の扉を開けると、京義のところまで戻った。嵐の気配を感じたのか、京義がそれに薄く目を開ける。 「大丈夫か、薄野」 こくりと京義の首が動く。充分過ぎるほどの意思表示だった。京義が立ち上がろうとするのに肩を貸して、そのまま殆ど引き摺るようにして車に押し込んだ。腕に感じた重みは外の風の中にずっと放置されていた冷たさを伴って、嵐の中の心苦しさを煽る。 「・・・あ、嵐くん・・・?お友達・・・かな、その子・・・」 「ごめん、後で話すから」 あからさまに包帯とガーゼで覆われた京義の姿を見て、上園は困惑した声を出した。その理由も分からんでもないが、それに一々説明をしているような余裕があるわけではない。京義の隣に自分も乗り込んで、上園が車を発進させる。裏門はこのまま開けっ放しということになるが、それくらいは許して欲しいところである。それにこの件が後で露呈しても怒られるのは自分ではなく、唯だろうことは何となく予想が付いている。それならば余計に良い気味だと開いたままの裏門を見ながら、嵐はひとつ溜め息を吐いた。 「有難う、嵐くん」 その人と図らずとも再会してしまったことについて、思ったより喜べない自分がいるのは、その夏衣の側で京義がぐったりとしているからだろうか。ホテルに着くころには京義はもう完全に目を閉じていて、眠っているようだった。しかし驚いたのは、京義のその尋常ではない姿を見ても、夏衣はひとつも動揺したところがなかったということだろうか。紅夜も一禾も居るのかと思ったが、夏衣の計らいなのか誰一人として姿を見せなかった。しかし紅夜が今の京義の様子を見たりしたらきっと大騒ぎになるだろう事は、双方とも簡単に推測出来た。京義の眠った体は自棄に重く、上園にも手伝って貰っていたが、それでも担ぐようにエントランスまで運ぶだけで重労働だった。見つけてから学校に戻るまでは、必死で殆ど無意識だったから余り気にならなかったのかもしれないが、良くあの距離を、京義を連れて戻れたと今になっては思えた。しかし如何見ても細身の夏衣が、満身創痍の京義を軽々と抱き上げた時、一体自分の苦労は何だったのかと思わざるを得なかった。 「・・・いえ、別に俺は・・・」 「これ誰が治療してくれたのかな、病院に運んだの?」 「や、あの、ウチの学校の保険医で・・・」 すると咄嗟に唯の名前を出そうとしたが、名前を出したところで夏衣には分からないかもしれないと、妙なところで言葉は途切れた。それにすっと夏衣は目蓋を伏せる。 「そう、先生が・・・」 「でもレントゲン取ったほうが良いって、病院連れて行ったほうが良いって・・・言ってました」 「分かった、明日必ず連れて行くよ、本当に有難う」 そう言って夏衣は微笑むと、京義を抱いたままエントランスからぼんやりと明るい光を放つホテルに戻ろうとこちらに背を向けた。嵐はそれを無言で見送る。京義の白い手に白い湿布が痛々しく、それが最後まで揺れているのがふと目に入った。京義がピアノを弾いているのは知っている。紅夜から聞かされていたこともあったし、その演奏に立ち会ったこともあった。他のことには殆ど無関心な京義が、それだけを熱心に思っているらしいことも普段の行いを見ていれば、明らかだったように思う。その手で人を殴ることなんて出来ないと、泣くように言った京義のことを、嵐は自分の中でどんな風に決着つければ良いのか分からずに、ただ途方に暮れていた。 「夏衣さん!」 一体何と思ったのだろう、白いシーツを握った痛みは、どんな風に京義の心に訴えかけたのだろう。 「薄野の、手・・・」 「手?」 声は消え入りそうだった。夏衣がそれに不思議そうに聞き返す。なぜ自分のほうがこんなにも焦燥して、こんなにも泣きそうになっているのだろう。 「・・・薄野、ピアノを弾くんです。もう知ってるかもしれないけれど・・・」 「うん、知ってるよ。聞いたことは残念ながらないんだけど」 「その・・・手が・・・手で・・・」 「・・・」 「ピアノを引く手で人を殴れないって・・・そう・・・言ってて・・・」 自分でも一体何を言っているのか良く分からなくなりながら、嵐は俯いた。まさか彼が、京義に限ってそんなことを言うようには思えなかった。だから余計に吃驚したのかもしれない。夏衣に言ってそれがどうなるわけでもないことくらい分かっている。だけど誰かに伝えなければ行けないような気がした。それが滅多に感情を表に出すことの無い京義の言葉なら、より一層。夏衣はただそれを黙って聞いていた。いつの間にか優しげな微笑は消え失せ、秀麗なその顔には無表情の中に影が降り立っていた。

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