184 / 302

立ち入り禁止区域

どこかの廃工場だった。まるで映画のセットのように、灰色の錆びた壁が圧迫感を訴えかける、倉庫の中に連れてこられて、そうしてそれは映画の撮影でも勿論ドラマなんかではなく、ただの現実なのだと知ることになる。男の顔は良く分からなかったけれど、これ以上の黒はないだろうと思わせるような黒いスーツに、下に着ているカッターシャツまで漆黒で、更に言うとその細い首に巻きついているネクタイも、黒光りしていなければ完全にシャツと同化していた。男はただ真っ白のアルファロメオの後部座席に座っており、扉が完全に開いていたからその姿が外からも見ることが出来た。余りにも美しい虹彩には何も映っていないかのようで、それでいてただ目の前で起きている出来事は決して仮想なんかではないはずなのに、男の目はそれを現実としては全く捉える様子もなく、まるで本当に映画やドラマを観賞しているようだった。しかしどう見ても、そこで全権限を握っているらしい男が一番ひ弱そうに見えた。スーツの色がもしかしたら悪かったのかもしれないが、自棄に体にフィットしたそれは、男の長いけれど棒のように細い手足を浮き彫りにしている。しかし、その時周りに居た屈強な連中の誰もが、ひとつも男に逆らう様子もなければ、声をかけることもしなかった。全員が全員、同じような黒いスーツに黒いサングラスをして、その頬を自棄に血の気の無いものにしていたから、余計にそれが映画の中の出来事に思えて、けれどこの痛みがまさか夢や幻ではないことくらい明らかだった。どう考えてもこれは現実なのに、どこか非現実臭くてそれを自分の中で一体どう処理したら良いのか分からず、受け入れられないのだ。 「・・・もう良いよ、海原」 面倒臭そうにアルファロメオに腰掛けたままの男は、側に立っている男、海原にそう声をかけた。その海原だけが他の男達と扱いが違うのは、見ていればすぐに分かることだった。海原だけがサングラスをかけておらずに、スーツもひとりだけグレーのものに緩めのネクタイを引っ掛け、コートを羽織ったラフな格好だった。突然声をかけられた海原は男にちらりと視線をやった後に、少しだけ眉間に皺を寄せた。 「しかし、夏衣様」 「もう良いよ、何か可哀想になってきちゃった」 そう言って夏衣はアルファロメオから出していた右足を引っ込めると、シートに深く凭れかかった。どこかそこだけが異空間のようで、周りの雑居の雰囲気から酷く浮いて見える。そこで本当に面倒臭そうにふうと息を吐くと、おもむろに視線を海原から反らした。 「そろそろ引き上げようか」 どこか不貞腐れたような顔になって、夏衣は投げやりに言いながら爪の逆剥けを弄っている。海原は夏衣の伏せられた目の辺りを暫く見ながら、夏衣の本心というものを伺っていたが、それ以上に夏衣は何も言わなかったので、アルファロメオの開けられた扉から手を離した。そうして視線をゆっくりと対角線に動かす。そこには自分の連れてきた本職ではないほうの部下の男達が5人、こちらに背を向けて立っていた。全員にサングラスをするように命じたのは、男達が夏衣と目を合わせるような階級の人間ではなかったからだ。けれど結局はそれで良かったと思っている。海原はひとつ溜め息を吐いて、動きを止めない男達の後ろに近寄り、ぱんぱんと大きく音が響くように手を打った。すると男達はぱっと俊敏な動作で振り返る。 「その辺にしておけ」 「良いんですか、海原さん」 「夏衣様がそう仰るんだ、もう良いんだろう」 頭をがしがし掻きながら、海原は男達に車に戻るように言いつけた。男達はどこか納得のいかないような顔で、ぞろぞろと倉庫を後にする。その背中を見ながらもう一度ふうと溜め息を吐いて、海原は男達が去った後を見やった。そこに制服の男子高校生が4人、息も絶え絶えに無造作に転がっている。一応腕の立つ人間を用意したから、それは相当に痛かっただろう。見ながら眉を顰めて、しかしそれとは逆に海原の意思とは無関係に、口角がゆっくりと引き上げられる。血生臭い匂いが鼻腔を擽って、それが海原の加虐心を煽る。夏衣にはもう戻るように言われているけれど、少しくらいは良いのではないかと思って、一番近くに転がっていた金髪の男の体を蹴り上げた。無抵抗の少年は面白いほど無機質にごろりと転がって、そのまま伏せた。 「運が良いよ、お前ら」 「夏衣様が慈悲溢れる方だったことに、感謝するんだな」 べとりと革靴に血をつけたまま、海原はもう少年達には目もくれずにアルファロメオまで戻っていった。部下の男達はそれぞれ自分の車で、今頃支部に向かって帰っているだろう。これだから止められないと唇の形を笑みにしたまま考えながら、海原はアルファロメオの後部座席に乗り込んだ。人がこんな風に死んだような目をするのも、本業だけを淡々とこなすその他大勢の普通の人間だったなら、見ることはきっと出来ないのだろう。そうすれば完全に血のお陰だったが、白鳥の系列に生まれて自分は良かったのだと海原は、まだ興奮冷めやらぬ血を静めながら下唇をぺろりと舐めた。どうも自分には加虐趣味があるらしいと気付いたのは、まだ中学生の時だったが、それが思い過ごしなんかではどうもないようだと思えてきたのは最近のことだった。運転手で連れてきた小牧が黙って、夏衣側の扉だけ閉めに降りてくる。ややあって車は、まるで取り立てて何事もなかったように、血の匂いをそこに染み付かせたまま、微弱なエンジン音を立てて発車した。 「御免ね、海原、仕事中だったでしょ」 「良いんですよ、夏衣様。俺のことなんてお気になさらないで下さい」 「・・・いや、でもさー・・・」 「俺は貴方の足と手ですから、お好きなように使ってください。その為に居るんです」 眼をキラキラさせて海原が隣でそう言うのに、夏衣は呆れた顔に微笑を浮かべる。 「逆剥け、取れましたか」 「ううん、まだ。気になっちゃうんだよねぇ、こういうの。帰って爪きりで切るよ、それが一番良いでしょう」 「見せてください、俺に」 「嫌だよ、海原。お前引っ張る気だろう」 「そんなことしませんよ」 「そうかなぁ、目がきらきらしているけど」 「それは久しぶりにお顔を拝見出来たので嬉しいからです」 あぁ、そうと夏衣はそれに気のない返事を返して、左手をすっと海原のほうへ伸ばした。まるで壊れ物にでも触るみたいに、海原は時間をかけてそれを両手で包み込むと、人差し指の爪の右側に飛び出た逆剥けを撫でた。窓の外に目をやっていた夏衣が不意に笑い出して、海原は不思議そうに顔を上げる。 「夏衣様?」 「止めてよ、気持ち悪いなぁ、お前」 「そんな、心外です!」 未だ海原が左手を握って離さないのに、夏衣は笑いながら嫌がっているふりをする。そうしてふたりでふざけていると、今まで一体何をやっていたかなんて、忘れてしまうのだった。それをバックミラーで見ながら、運転席に座った小牧はひとつ息を吐いた。小牧にとって海原は先輩に当たる人間だったが、どうもこの男のことは苦手だった。 「海原さん、署まで戻るんですか」 「いや、俺張り込みの途中だから、その辺で降ろして」 「了解しました、止めますよ」 アルファロメオが無駄な音など立てずに、見る間に左端に寄せられてそこで停車する。海原は名残惜しそうに夏衣の手を離して、するりと車から降りて行った。夏衣はそれをやれやれと思いつつ、見送るために扉に手をかける海原を見上げた。 「いってらっしゃい、お仕事頑張ってね」 「はい、市民の皆様の平和と安全のために、働いて参ります」 どこか芝居がかった口調で海原はそう言うと、車に乗ったままの夏衣に良い笑顔で敬礼をした。

ともだちにシェアしよう!