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ジェネラリストは退屈 Ⅰ

それは良く晴れた日のことだった。大学では学期末の試験が迫り、何となく今まで過ごしてきたことへのツケを払わされる感じがする時期だった。それとは全く関係のないところで、今日も染は学校行きを渋り、一禾は目を吊り上げてそれを叱り、夏衣は別に一日くらい休ませてあげたらどうだと、甘い言葉で染を誘う。しかし結局一禾の剣幕に勝てない染は、今日も高級外車に殆ど押し込められて、一禾の荒々しい運転の隣でぶるぶる震えながら窓の外を見ていた。外は寒くて、これから本格的にぐっと寒冷が押し寄せるのかと思うと、背筋を撫でられているような気持ち悪さがある。瞬く内に学校まで着いた車から降りながら、今日も何処かその美しい顔に青筋を浮かべている一禾の様子を、そっと伺う。どうしてこの幼馴染は自分を放っておかないのだろうと、染は考えることがある。どうしてこうも駄目な自分のために一禾は殆どの労力を使って側にいてくれるのだろう。その返事が怖くて一度もそれを本人に確かめたことはないが、こういう時は余計に、それを知らしめられている気がするのだった。 「・・・なに、染ちゃん」 視線に気付いた一禾が、落ちてきた黒のマフラーをきっちり巻き直しながら、色の無い声でそう言った。どう見ても大学生の着るようなものではない、高級そうなベージュのコートが一禾のその秀麗な雰囲気と良く合っている。それに心臓が無意味に跳ねる。一禾の視線は此方にないのに、どこか見られている気がするから、染は自分でも無意識のうちにそれから視線を外していた。 「・・・あの、御免・・・」 「別に良いよ、何今更謝ってるの、いつものことでしょ」 呆れたように一禾がそう言うのに、そっと目を上げると一禾は仕方なさそうに、その目の形を優しいものへと変えていた。そういうところが一禾も自分で染に甘いところだと自覚しているが、分かっていても結局何の改善も見られないというところから考えても、こればっかりは直しようがないのかもしれないと半ば諦めてしまっている。一禾の手が伸びてきて、他人の手なら染は確実にそれに一度はびくりと体を硬直させるのだったが、この頭も体も知っている。その手は決して自分を裏切らないものなのだと、知ってしまっている。だから他の人間に働く予防線が、一禾の前では無意味になる。気を許していると、それを一般的には呼ぶのかもしれない。しかし染にはそんな既存の言葉の枠内に、一禾との関係を見出せていなかった。一体一禾は自分にとって何なのか、どういう存在なのか、この回答をずっと長い間、それこそ一禾とはじめて出会った時から、探し続けている気がする。少しだけ触れた一禾の指先は、外の冷気に当てられたのか、自棄に冷たい温度をしていた。一禾はそのまま何も言わないで、染の被っていたニット帽をぎゅっと下ろして、それに押されて変な風に曲がった大き目のサングラスの角度を直した。満足そうに一禾が頷くのに、染は殆ど条件反射で俯く。 「行こうか、講義どこであるの?」 「ええと、F棟だから・・・奥の」 見透かしたように一禾は笑いながら、染の少し前に立って歩く。染はそれに置いて行かれないように、そして他の人間とは目を合わさないようにして、目的の場所目指して歩きはじめた。もう少しで駐車場を出るというところだった、後ろから声がした。 「待ってください!」 「・・・―――」 後ろを歩いていた染が反応するよりも早く、一禾のほうが振り返って、染は振り返った一禾と目が合ってから、ようやく声の主に気付いて、あたふたと無駄な動作を挟みながら一禾の後ろに隠れた。それはどう聞いても高く、男の声には聞こえなかった。そしてやはり予想通りに振り返ったその先で、真っ白のコートに身を包んだ黒髪の女の子がひとり、頬を赤くして此方を向いて立っていた。その子はひとりで、周りに他の人間の気配もしなかった。女の子は一禾と目を合わせるとどこか気まずそうに俯いて、そのせいではらりと零れた横髪を弄って耳にかけた。ちらりと背中に隠れているつもりらしい染の様子を伺うと、びくびくと震えながらもなぜか気になるのか、一禾越しに女の子の様子を伺っているようだった。女の子が何の用件で自分たちに声をかけてきたのか、一禾は女の子が肝心なことについて口を割るよりも早く、理解しているつもりだった。 「あの、突然すいません。私、経済学部の一年の藤原沙織といいます」 そんなことははっきり言ってどうでも良かった。一体どちらなのだと、一禾は考えながら殆ど無表情で、舌唇をぺろりと舐めた。 「あの、黒川さん」 弾かれたように、沙織は顔を上げる。一禾はそれにひとつ溜め息を吐いて、自分の名前が呼ばれて気分でも悪くなったのか、短い悲鳴を上げて尚後ろに隠れようとする染の腕を引っ張った。学校に着いたばかりなのに幸先が如何も悪い。この分では明日も休むと駄々を捏ねるに決まっている。無理矢理上げさせた顔は酷いもので、サングラス越しの目は既に潤み切っているのが分かった。 「・・・染ちゃん、だってさ」 しかし染は一体どういう意思表示のつもりなのか、一禾のそれにぶんぶん首を振って一禾を依然涙の流れる手前の状態で押し止まっている目で見上げる。外の寒さとは無関係に、その頬はいつの間にか青白くなってしまっていた。仕方なく目を戻すと、沙織は染ではなくて一禾のほうをじっと見ていた。これは空気を読んでどこかに行ってくれという目なのかもしれない。参ったと思いながら、朝セットしたばかりの髪の毛に触れて、ぴたりと指が止まる。ここで自分が退席したところで、染は漏れなくついて来るつもりだろうし、そうすると彼女の思惑からどちらにしても外れることになる。 「・・・あの、悪いんだけどさ」 「はい」 訝しそうに一禾を見上げる彼女の顔は、どこも擦れていない清楚な雰囲気を漂わせる、可愛らしい感じの女の子だった。染の隣でその腕を掴んで良いのは、本当はこんな子なのかもしれないと、それは一禾に思わせる姿だった。化粧を施した背の高いモデルみたいな子ではなくて、本当はこんな世の中の汚い部分なんて余り興味がないような目をした、こんな女の子じゃないのだろうか、と。思ったら最後、その叶わぬ想像に背筋を気持ちの悪い手で撫でられて、一禾は一瞬沙織を前に、一体何を言うつもりだったのか忘れてしまった。中途半端に言葉を切って急に黙った一禾を見上げて、沙織は不思議そうな顔をした。その痛いような視線にはっと我に返る。まだ染が後ろから自分のコートを引っ張っている。本人はすぐここから逃げ出したい気持ちなのだろう。それを無視して一禾は5メートルほど離れて立っている彼女の側まで、歩みを進めた。急に動き出した一禾に染は吃驚したのか、手を離してしかしその背中を追いかけることはせずに、ただそこで一禾のことを不安そうに見ている。 「御免ね、俺が代わりに話を聞くよ」 「え・・・―――」 不意の申し出に戸惑ったように沙織は一歩足を後退させた。その沙織から見たら自分はどれだけデリカシーがない人間だと思われているのか、思ったが別段そんなことは如何でも良かった。出来るだけ優しそうに見える笑みを顔に貼り付けたまま、一禾は沙織が戸惑っていることなど、決して悟っていない雰囲気のまま動かない。沙織は一度鬱陶しそうに一禾の顔を見たが、その一禾を交わして、5メートルほど後方ではらはらとその様子を伺っていた染のほうに走り寄っていった。 「黒川さん!」 不味いと思ったが、染は大声を出さなかった。目が合うのが怖いのだったらと出かけにサングラスを貸してやったのが、功を奏しているのかもしれない。 「すみません、突然。好きなんです、私。黒川さんのことが!」 「・・・え・・・」 「付き合って・・・貰えませんか」 言いながら沙織が俯く。その何とも言えない雰囲気に、一禾は後方で溜め息を吐いた。

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