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ジェネラリストは退屈 Ⅲ

その日も随分と冷え込んでいた。これが徐々に暖かくなって、春に向かっていくなんてまさか思えないような、そんな天候の下、一禾は車の側で手を擦り合わせながら待っていた。駐車場は校門から入ってすぐ右側にあり、センターロードと植え込みを挟んで左側はスクールバスが止まるバス停が見えている。そこにはいつも2、3台の青い字で学校の名前が堂々と書かれたバスが止まっており、そこに既に数人生徒が乗り込んで発進を待っている。きっと中は暖房が利いているのだろうが、それとは関係なく後方の扉は、後から乗り込んでくる生徒のために開けっ放しになっていた。それを考えれば、あの中だってそんなに暖かくはないのかもしれない。そんなどうでも良いことを考えながら、一禾はもう一度手のひらを擦り合わせて、そこに気休めにもならない息を吹きかけた。その時センターロードの向こうから、この寒いのに白いスカートに素足の沙織が現れたのが見えた。一禾はおもむろに車から離れて、そちらに向かって手を上げた。彼女は運の良いことにひとりで、一禾を見つけると一瞬怯んだようにその場に立ち止まった。これはこの間のデリカシーの無さを引き摺っている結果なのだろう。考えながら下唇をぺろりと舐めて湿らせると、一禾は出来るだけ無害に見えるように彼女に向かって微笑んだ。 「沙織、ちゃん、だよね」 「・・・何ですか」 警戒と疑惑の混ざったような表情のままだったが、沙織は一禾の呼びかけに小さくそう答えると、ゆっくりと近付いて来た。そして一禾の目の前、5メートルは空けて止まった。一体何の予防線をそれで張っているつもりなのだろう。そんなものすぐに無駄になるのに、と一禾は内心思ったが勿論一言もそんなことは漏らさなかったし、まさかそんなことを思っているだろうこともおくびにも出さなかった。寒そうに真っ白のマフラーに顎まで埋めた沙織の眉間にあからさまに皺が寄っているのを見ながらも、一禾は口角を決して下げようとはしなかったし、眼は優しい三日月のままだった。女の子にこんな顔をされたことがそもそもなかったので、対処の仕様が無かったのもひとつの理由になるのかもしれないが。 「話したいことがあるんだけど、染、あ、いや、黒川のことで」 「・・・―――」 勿論そんなことは分かっていたことだったが、染の名前を出すと彼女の不穏だった表情に、一瞬光が刺したようになった。それを一禾はまさか見過ごさない。背筋に悪寒が走ったけれど、それを知らない振りをするのも忘れない。だから良い人を演じる余りに自分がそこから抜け出すことが出来なくなっていることに、一禾は絶対に気がつくことが出来ないのだ。こんなことを繰り返していれば、余計に深みに嵌まる一方なのだと知っているけれど、指をくわえて事の成り行きを待つことよりはマシだった、幾分も。染の名前に反応して一瞬顔を明るくした沙織だったが、近くに染がいないことが引っかかっているのか、決定的に警戒を解こうとはしない。彼女の過剰とも思える反応は、一禾にとっては新鮮であり、何処か興味深くすらあった。 「黒川さんは」 「いない、君も知ってるかもしれないけど、彼はとても恥ずかしがりやだから、後のことは俺にって」 「・・・」 「寒いね、ここ。車の中入ろうか」 黒のカイエンの扉を開けるだけで、一禾は黙ったまま沙織に中に入るように促した。沙織はそこに視線をやった後、暫く躊躇うように考える素振りを見せたが、染の名前を出されている手前、引けないところもあるのだろう。それに染が女性には縁のない変人であるという噂とともに、側にいる一禾の風聞だって必然的に耳に入っているはずだ。それが一体どんなものであるのか、当事者である一禾はまさかそれを正確に知っているわけではなかったが、それが自分にとって良くないものではないという自信はあった。そういう圧倒的な自信は、一禾が今まで築いてきたのが自分の「良い人」の仮面と地位と人間関係のその延長に付随する副産物から来ている。全てに嫌気が差すこともあるけれど、一禾はその労力の全てに見返りがあることを信じて「良い人」を止めることが出来ないでいる。だから沙織が現段階で一禾に対して明らかな戸惑いと警戒を見せたとしても、一禾はひとつも怯まなかった。一禾が怯む要素などこの場にはひとつも無かった。自分のフィールドに持ち込めば、いや持ち込まなくても、女子大生ひとりどうにか出来ない自分ではない。決してない。一禾は知っている、自分の器量と性質が誰にとってどのような場所で有効なのか。一禾は自分の全てを正確に把握しているようで、勿論知らないことも多い。けれど正確に把握している部分の機能の仕方は、少なくとも良く分かっている。 「・・・すぐに終わりますか」 「勿論」 口角を上げるだけで自分の顔がどんな風に見えるのか、鏡など無くても分かるみたいに、自分の言葉が相手の胸にどのように響くのか、一禾は十分過ぎるほど分かっている。少し小首を傾げて一転、あどけなさを滲ませて微笑むと、沙織の強固だった足は動いた。それが車の中に吸い込まれるのを見届けた後、一禾はその微笑をはじめて崩して、ゾッとするような無表情に戻した。それこそが一禾の本来の姿であり表情であることを、知っている人間は数少ない。もしかしたら、長年側で連れ添っている染ですら知らないのかもしれない。一禾は確かに優秀であり常に温和であるが、優しい良い人などでは決してない。それは一禾自身が一番良く分かっている。車を回って運転席の扉を開けると、沙織のほうは見ないようにして、一禾はするりと中に入り込んだ。あんな不意打ちに、しかも正攻法を使って、自分の見ている前で、染に良くもまぁあんな大胆なことが出来たと思うが、1年生と名乗った彼女は一禾のことも良く知らないのかもしれない。どちらにしても無理はない、無理はないという理由で一禾は彼女を許そうとしていた。なぜか、許してやらなければ可哀相な、そんな気がしたのだ。 「何ですか、黒川さんのことで、話って」 開口一番彼女はやはりそう言って見せた。車の中は良い具合に暖房が利いていたが、まだ少し寒いような気がした。勿論聞こえていたが、一禾は知らぬ振りをして黙っていた。黙っていることの有用性を考えていた。隣で沙織が焦れたようにすんと鼻を啜った。 「何なんですか、黙ってないで、教えて下さい」 強めの声色は若干ながら怒気が含まれていた、ような気がする。そこでようやく一禾は、たった今気付いたみたいなやり方で、ふっと沙織のほうを見遣った。その琥珀色の目を見て、沙織は何か言おうとしていた口をきゅっと結んだ。生まれるはずだった言葉は、沙織の気紛れで生成されなかったわけではない。こちらを振り返った一禾はもうあからさまな微笑を顔に貼り付けていなかった。それにはもう用はないと言いたげな、気だるげな無表情で、一禾はワザと口角だけを引き上げた。 「煩い」 「・・・は・・・?」 「黒川、黒川って、煩いよ、君、ねぇ」 「・・・―――」 くすくすと口元だけで笑いながら一禾は、助手席に座っている彼女のほうにすっと身を乗り出した。沙織が頬を引き攣らせて、狭いそこに逃げ道を探している。後ろ手で扉の取手を握っても、それは容易には開かない。そんなもの車に乗り込んでから一番初めにロックをかけた。 「黒川なんかのどこが良いの」 「・・・なに・・・」 「話があるなんて口実だよ、どうして気付かなかったの」 「・・・やめて・・・」 何の加工も施されていない黒い髪が、掬った一禾の指からさらさら落ちていった。か細い声で沙織が呟くのを、都合が良いのか聞こえないふりをする。 「気付いてたくせに、嫌なら車なんか乗らなきゃ良いんだよ、最初から」 「・・・離して・・・ください・・・」 「離さないよ。まだ黒川のこと考えてる?違うでしょ」 「・・・―――」 車の扉の取手を探して彷徨う彼女の細い手首を簡単に絡め取って、一禾はまたにこりと無害な微笑を浮かべる。もしかしたらその一瞬だけ、彼は酷く悪人に見えたかもしれない。

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