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ジェネラリストは退屈 Ⅳ
何とも言えない仄暗い沈黙が、その時車の中を漂っていた。他の場所は冷たいくらいなのに、握った彼女の手首だけが妙な熱を帯びている。それは体温同士が触れ合っているからという単純な理由以上のものを、否応なしにこちらに感じさせる嫌な熱の塊だった。暗がりに彼女のふたつの大きい目が、何かを期待して濡れて光っていた。もうその桜色の唇は一禾を拒絶する言葉を呟かない。身体は依然扉にぴったりと寄せられていたが、それはそこまでしか逃げ場がないことだけの証明にはならなかった。ちらりと時計に目をやると、そろそろ時間が迫っていた。そこではじめて手を握っていることに気付いたみたいに、一禾はわざとらしく視線をずらすと手をするりと撫でるように解いた。沙織のほうはそれが意外だったみたいで、もうこちらにはない一禾の視線の行方を追いかけるみたいに、その精巧に整った横顔を息を詰まらせて眺めていた。
「ごめんね」
「・・・え?」
そんなことをまさか、一禾がこのタイミングで言い出すとは思っていなかったのだろう。沙織は全く用意のない少しだけ哀れっぽい声を出して、離された手と一禾のほうを信じられないかのように何度か交互に見遣った。一禾は乗り出していた身を運転席におさめると、右手で扉のロックを解いた。そうして沙織のほうを見遣ると、何とも言い辛い曖昧な笑みを浮かべた。
「引き止めてごめんね、帰ったほうが良いよ」
「・・・―――」
濡れたふたつの瞳が、くるくると水面に円を描くように暗がりに光を帯びる。沙織は何も言わなかった。暫く何も言わないで、あっさりと手を翻す一禾の横顔を見ていた。見ていても何も得られないばかりで、でもそこに答えを探すしかなかった。はじめから一禾に正当な答えなど必要なかったので、結果的にそんなものはどこにもなかったことになるのだが、彼女がそれを自分の中でどう折り合いをつけたのか分からない。黙ったまま彼女は、まるで何も無かったかのように扉を今度こそ開いて出て行った。扉が閉まる鈍い音がして、一禾はふうと息を突いた。女の子特有の甘ったるい匂いが車内に僅かに残っていて不快だったが、それ以上に寒かったので扉を開けて換気すら出来ないでいる。まるで裏切られでもしたかのような顔を、その一瞬彼女は確かに浮かべた。約束などありはしないのに、ふたりの間にも、他の場所にもありはしないのに、求めても得られないものほど切ないものは、ありはしない。一禾はそれを一番良く知っている、良く分かっているのだ。抉り方も消毒の仕方も、良く。その何とも表現しがたい沈黙とどこか非難めいた瞳のことを、一禾はなぜか良く知っているような気がした。昔誰かがそんな目で、自分のことを見ていたのをぼんやりと覚えているのだ。
「いちかー」
不意に窓ガラスを叩く音がして、一禾ははっと我に返った。音のするほうを見遣ると、頬を赤くした染がそこに立っていて、一禾の視線を捉えるといつものようにへらりとそれを綻ばせた。一禾もそれに答えるように笑みを零しながら、車の扉を開く。
「遅かったね、染ちゃん」
「ん、レポート出してたら遅くなった」
「そっか」
そんないつもの何気ない会話の中に、自分でもどこか引っかかっている部分が残っているような気がした。それが自分をいつもの自分には容易に戻してくれないのではないかと、一禾は気が気ではなかった。頬を赤くして笑う染に、それ以上一体何と言えば良いのか、全く頭の中に浮かんでこなかったことに気付いて焦ったが、その時にはもう相槌を打つタイミングを完全に逃していた。こういう時決まって染は鋭くて、いつもは鈍くて困るくらいなのに、こちらの意図を読んでいるみたいに時折鋭いことがあって、それは今日みたいなことがあった後が多かった。だから少し警戒しているのかもしれないと、一禾は頭の隅のほうでぼんやりと考える。本当なら染に隠し事など作りたくない、けれど自分は清廉潔白には生きられない。自分のことをそんな風に守っていたら、染のことなど守ってやれなくなる。一禾は良く周りから要領が良い世渡り上手だと言われるが、自身では一度もそんな風に思ったことがない。自分という人間を良く知っている以上、そんな風にはとても思えない。
『君が君のことを気に掛けてやらないと、誰も気に掛けてくれないよ』
不意に江崎の声がしたような気がして、一禾は口の中に苦いものが広がるのをどうしようもなく飲み下すしかなかった。自分のことは良かった。二の次でもそれなりに形になっているから、後から修正してもそんなに酷いことにはならない、今まではならなかった。勿論あの日、研究室で准教授に迫られたことを、一禾はすっかり忘れてしまっていたわけではなかったが、それでもどこか一禾は自分のことを後回しにして生きてきた。今更それを自分ではどうしようもなくて、悪癖のように無意識が一禾の選択をそちらに促すのだ。自分のことは二の次でも良い、それで現状より事態が悪化しても、自分のことならば後から何とでも出来る。でも染のこととなるとそうはいかない。いつもベストな選択を弾き出す必要がある。染は後から修正など器用なことが出来ない、出来ないで今まで来てしまっている。彼の全てを現状から歪めないことこそが、一禾の全てでもあった。それが「要領が良い」ということなら、一禾はそこではじめて頷くことが出来ると思っている。
「オイ、一禾」
現実に一禾を引き戻す声がして、それに逆らわずに視線を上げると、そこに寒そうにマフラーをきっちりと巻きつけたキヨが立っていた。いつの間にか目の前に居たはずの染は何処かに身を隠し、代わりに唐突に現れたキヨは酷く面倒臭そうな表情を浮かべている。
「・・・キヨ」
「俺になんか、言うことないの」
「・・・言うことって」
唐突に現れたキヨは、きっと染の後ろで存在を消して寒がる手でも擦っていたのだろう。ちらりとすっかり背凭れにしていたカイエンを見やると、消えたはずの染はその中にちゃっかり乗り込んでおり、暖房の調節をしているのが窓ガラス越しに見えた。不機嫌そうに眉間に皺を寄せたキヨに視線を戻しながら、一禾は口の中で繰り返すように呟くと首を傾げた。
「ほらぁ、染のお供お疲れ様、とかなんとか、なんかあっても良いだろ」
「・・・そんなこと一々、ホントキヨって器小さいよね」
「なっ・・・お前、染の面倒毎日見るのがどれだけ大変か分かって・・・―――!」
キヨがそれを言い終わるのを待たずに、一禾はトレンチコートの裾を翻すと車の扉に手を掛けた。
「じゃ、俺もう帰るから」
「ちょ、待てよ!」
「何なの、まだ何かあるの」
「・・・帰り道だろ?駅まで乗せてってくれるとか、そういうの、ないの」
「はぁ?」
今度は一禾が眉間に皺を寄せる番だった。
「友達だろ!この寒いのに外でバス待たせる気かよ!」
「図々しい、皆そうしてるじゃん」
全く取り合う様子も無く、一禾は自棄に颯爽と運転席の扉を開いてそこに細身の体を滑り込ませると、キヨのほうは一瞥もくれずに無常にも扉を閉めた。
「キヨ、ばいばい、また明日なー」
「オイ、染まで!染まで俺を裏切るのか!」
窓を開けてそこから身を乗り出そうとする染を軽く窘めて、一禾はハンドルを握った。ちらりとミラー越しにキヨの様子を伺うと、こちらを恨めしそうな表情で見ているのが目に入った。
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