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ジェネラリストは退屈 Ⅴ
「ねぇ染ちゃん」
月初めに梨香のショッピングに付き合った時に、一禾に似合うからと彼女が買ってくれたブランド物の黒のマフラーは、その日染の首をしっかりと覆っていた。こうしてモノが横に流れることは、ふたりの間では決して少なくなかった。染は殆どの事柄に対して余り興味のない人間だったが、ファッションに対しても例に漏れず興味の度合いは低めだった。その為なのか買い物に行けないという理由が大きいのか、その私服の大部分は一禾かその後ろ盾が購入したもので占められている。しかし毎日のコーディネートまで一禾は面倒を見られないので、染に任せっきりになっているが、今のところそんなに奇抜な格好をした染と朝顔を合わせるということはない。そういう観点から言っても一応染は染なりに、自身を飾るものとして気を配っているのかもしれない。もしくはその他大勢に埋没する方法を、そうして探っているのかもしれないが。考えて見ると後者のほうが、より良く染という人間を反映しているようで、溜め息を吐きたくなる結果に一禾はひとりで苦笑いを浮かべるしかない。染一人の反対を押し切って、談話室に飾られている『オペラ』の一部分に見られるほどのセンスが染にあるとは思えないので、素材が良いから大体のものは何でも似合うのだろうという夏衣の言葉も一理あるような気がした。
「なに?」
「・・・あのね、この間1年の子に告白されてたじゃない」
「こくはく・・・」
さっと頬を赤くして、染は俯く。まるで女子中学生の反応だ、これではどちらが告白したのか分からない。考えながら一禾はふっと息を吐いた。
「付き合うとか、言ってたけど」
「・・・何だよ、聞いてたのかよ」
「聞こえたの、皆大声で喋るんだもん」
「ん・・・ナツが悪い・・・」
俯いたままぼそぼそと、隣に居る一禾にようやく聞こえるくらいの音量で、染は小さく恨み言を零している。そんなことは如何でも良かった。ちらりと盗み見た染の横顔は、もう何処にも赤みは差していない。一体それがどういう感情でどういう理屈から来るものか分からなくて、苛々する自分のことを上手く押えることが出来ない。染のことになると視野が狭まることくらい良く分かっていたが、こんなにも身動きの取れない思いをするのはそういえば暫くぶりのことだった。
「本気なの」
「・・・本気って」
「本気で付き合うつもりなの、出来ると思ってるの」
少々強めの口調で一禾が尋ねると、染はますます深く頭を垂れてしまった。一禾は彼女のどこが染にそんな恐ろしいことを考えさせたのか、本当はそれが聞きたかったけれど、至高のプライドが一禾にそれを言わせるのを阻んだ。一体どうして彼女だったのだろう。女性という生き物を、兎に角染は自分の周りから排除して生きてきた。確かにそれに一禾も一役買った部分は大きい。キヨをボディーガードのようにつけているのも、そのことの一環であるとも言えるだろう。しかし何より本人が、染自身が女性という生き物に近付くことを何年も敬遠しているのだ。それは染の異常体質を裏付けている、気持ちの問題として考えても同じだった。その染がまさか、他の誰かの口添えなしに、自らそんな暴挙に打って出ようとは、誰も思わなかっただろう。それは一禾の予想を遥かに超えていた。一禾だって信じられなかった、いや今だって信じてなど居ない、信じるつもりなどない。そんなのは口から出任せの、勢いのみの発信であると染に尋ねる前から決め付けている。
「で・・・出来る、かは、分かんない」
「ほら」
「・・・でも」
俯いたまま弱弱しく、染はそれでも言葉を繋いだ。
「変わったとこ、認めてもらいたいから」
「・・・―――」
誰に、一体誰に。聞くまでもなかった。一禾は返事をする代わりにハンドルをぎゅっと握り締めた。分かっていたが、理解するのにはまだ時間がかかりそうだった。染の中に残っているその名前の存在の大きさに、一禾はいつも揺るがされている。そんなはずはないと大声で否定する自分と、分かっているのだと余りにも冷静に受け止めている自分が一禾の中にはふたりいて、それが可笑しいくらい共存し競合している。ふっと染が顔を上げるのが、雰囲気だけで分かったが、それを視覚的に確認するのを一禾は止めにした。その瞳の中にきらきらした希望を見たくなかった。自分が今後摘むことになるだろう染の希望の芽を、一禾は罪悪の気持ちで確かめるわけにはいかなかった。一禾の知るところではなくなった染は、最早隣の一禾に言うわけではなく、誰に語るわけではなく、ただ自身の自己満足を慰めるかのように、自棄に穏やかな表情でふっと呟いた。
「そしたらきっと、迎えに来てくれる」
そんな日は訪れない、自分が染の側に居る限り訪れないのだと一禾は分かっていたが、それを染に言うのは勿論憚られたし、一禾自身もそれを強く信じられなかった。下らぬ自己暗示と分かっているから、下手に口に出してしまいたくなかった。おおよそ起こり得ることのないことを、強固に信じている染は健気であり愚かであったが、そのおおよそ起こり得ることのないことに、怯えている自分はもっと酷い言葉が似合うに決まっていると、一禾はそれに詰まらない相槌を打ちながら考えていた。
「酷いカオ」
談話室に入ったら、開口一番夏衣はそう言って、ずれた眼鏡を右手で直した。帰ってきているはずの高校生二人はそこにはおらずに、がらんとした空間は実際の温度より酷く冷たい空気で満たされているような気がして、一禾は眉間に皺を寄せた。
「・・・何、帰って来て最初に言うことがそれなの」
「おかえり、染ちゃんは」
「レポート、あるんだって」
何かを含ませて笑いながら言う夏衣に対して、溜め息を吐きながら無表情で一禾は答えると、鞄とコートを椅子の上に乗せて早速キッチンへと入っていった。
「あんまりそんな顔しないほうが良いよ、可愛いのに台無しだ」
「煩いなぁ、放っといてよ」
「何かあったの」
如何してこんなに鋭いのだろうと、夏衣に関しては思うことが多くて、どこかで自分の様子をこの男は見ているのではないかと思うほどだった。てっきり笑っているものだと思ってゆっくり視線を上げると、手元の本をただ見ている夏衣の横顔にぶつかっただけだった。
「何もないよ」
呟いた声に、どれくらいの嘘が含まれているのか、一禾は自分でも分からなかった。何かあったのという夏衣の何気ない問いは、こちらのことを全て見透かしているようにも聞こえたし、ただカマをかけているようにも感じられた。だとすればそれに素直に答えてやる必要などない、必要などないのだ。ひとりで薄ら寒くなって、一禾はやや乱暴に紺色のエプロンを掴むと、依然本から視線を上げない夏衣に背を向けて、エプロンのヒモを括った。一禾の視線が完全に反れてから、夏衣はゆっくりと顔を上げてその頼りない背中を見ていた。あんなにも分かり易い目をするくせに、あんなにも物欲しそう目をするくせに、決してそれを表には出さない、出せない一禾が可哀想でもあり、また愚からしくも感じられるのだった。
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