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ジェネラリストは退屈 Ⅵ
その日も気温は一桁だった。一禾のほうが先に講義が終わる場合、染を態々迎えに行くこともあったが、最近はキヨに任せてくるまで待っていることが多い。自立を促す、などという名目を掲げて、結局は学科の違う染の使っている建物と一禾の使っている建物は結構な距離離れており、一般教養が終了して学校の中で滅多に顔を合わせなくなった最近、ただ面倒臭くなっただけだった。それにしても冷たい風は瞬きをするのも嫌になるくらいに攻撃性の高いもので、こんなことなら暖房の利いた暖かい部屋の中で、少し時間を潰してから出てこれば良かったと、コートのポケットに手を突っ込んで一禾はひとり後悔した。講堂を出てから駐車場までの距離が果てしなく思えて、少し俯き加減に周りの人間に構わず脇目もふらずにひたすら前進する。車に辿り着いたところで、中は冷え切っているのだろうが、風が通らない分幾分もマシだ、マシなはずだった。広々とした駐車場に辿り着き、車の間を縫うように歩きながら、今朝の記憶を懸命に呼び戻す。止めた場所を度忘れするなんていうことは、勿論一禾でも経験がある。キヨが一度大真面目な顔で、お前もそういう人間みたいなところあるんだなと感心していたのが脳裏に過ぎって、一体彼は自分のことをなんだと思っているのだと、今更ながら苦笑したくなる。付き合いだけは長いはずなのに、おかしい。考えていた一禾の足が、その時ふっと止まった。
「・・・こ、こんにちは」
「こんにちは」
自分の車、確かに一禾の車だった、その隣に白いコートを着た沙織が頬を真っ赤にして立っていた。そういえば彼女とはじめて会ったのも駐車場だったなと思い返しながら、一禾はポケットの中で指を擦った。しかし自分の車がそれだと彼女が良く分かったものだ、おそらくだがはじめて会った時も、二度目の時も、そして今も、車種は違うはずだった。彼女の観察眼を褒めるべきなのか、行過ぎてストーカーにならないようにと注意すべきなのか、どちらも違うような気がして一禾は黙っていた。
「・・・あの・・・」
「・・・」
「あの、えっと、あの、わたし・・・―――」
アスファルトをゆっくりと視線は撫でて、決心したようにこちらに向いた。一禾はそれにゆっくりと分かるように微笑んでいる形を作って見せた。沙織の硬い表情が、ぴんと張り詰めた後に不安定な安堵に変わる。一禾はゆっくりと沙織のほうに向かって歩を進めた。彼女はそこに立っていた。きっと長い間そこで待っていたのだろう。手袋もしていない指先が真っ赤に染まっていて、それだけで酷く痛々しくも見えた。一禾は穏やかな微笑を少しだけ意地悪なものに変えて、赤い顔をして俯く沙織の前で小首を傾げて見せた。
「どうしたの、もしかして友達に言われた?」
「・・・え・・・」
「勿体無いって、言われたの?」
「・・・ち、違います!」
ぶつかる視線の距離の近さに、沙織の勢いは後半にかけて急に失速した。一禾はそれを見ながら微笑んでいる。宙を寄る辺無く彷徨う不安を掴まえて、大丈夫だよと肩を抱いて囁くことは可能だけれど、一禾はそんなに優しくはない。釣った魚にエサはやらないと、いつか誰かが言っていたが、まさにそのことだと冷酷なもうひとりの自分が内側から一禾に耳打ちする。
「そ、そうじゃなくて、えっと、あの」
「ごめん、ちょっと意地悪した」
「・・・え?」
ただでさえ近い距離を更に近づけて、一禾はそっとその笑みを解いた。
「上月さん、わたし・・・―――」
「良いよ、分かってる」
『好きだ』なんて言われたら堪ったものではない。紅夜の言葉ではないが、そんなものの責任など、一禾は取れないし取るつもりもない。
ホテルに入る前に、すっかり遅くなってしまったことは承知だったが、一応キヨにはメールをしておいた。色々と文句を言われるのが目に見えていたので、面倒臭くなって電池がなくなったふりをして電源を切った。暗がりにオレンジ色の間接照明が、夕方の時間帯を深夜に見せかけている。こういう時は煙草でも吸うのだろうかと思いながら、一禾はそれに手をかけたことがない。別に失礼だと思っているわけではない、一禾が考えているのは他人のことなどではない。ぼんやりと白い壁に揺ら揺らと映る影を眺めていた。部屋の中は人工的な温かさで、鼻は乾燥の気配を嗅ぎ取っている。するりと冷たいものが体を起こしていた一禾の腕に絡まって、ふっと視線を落すと沙織がそこで一禾を見上げていた。自棄に熱っぽい目をしている、熱に魘されている目をしている。早く目が覚めれば良いのに、そして全てが夢だと悟れば良いのに。彼女が求めているものの正体を、一禾は一瞬にして感じ取ったが、それをそのまま渡すには何故だか少し惜しい気がした。だから分からないふりをして、優しい顔をして頭を撫でた。尤も彼女の必要性など、車の中で沙織が息を詰まらせたところで終わっているはずだった。後追いは危険だ、良くないことに成りかねない。早く何とかして手を引かないと、頭が性急に一禾に回答を促すが、ぼんやりと暖かい部屋で一禾は何も考えることが出来ない。目を細める沙織の頭を撫でて、馬鹿なふりをしていた。
「一禾さん」
顔を半分シーツの中に埋もれさせたまま、沙織は擽ったそうに名前を呼んだ。
「なに」
いつの間に自分が「いちかさん」になったのか、一禾は覚えていなかった。記憶はそれに対して容量を割かないつもりなのだろう、きっと今後も覚えない。
「いっしょにいてくださいね」
「・・・―――」
「ずっといっしょに、いてくださいね」
それを、この子はそれを染に向かって言うつもりだったのだろうか。頭の一部が奇妙なほど冴えて、一禾は一瞬表情が真顔になるのを止められなかった。幸い沙織は相変わらず熱っぽい目で一禾を見上げており、気付いた様子はなかった。慌てて表情を柔らかく解して、それに曖昧に頷く。そんな恐ろしいことを、染相手に呟くつもりでいたのかと声を張り上げそうになった自分のことも、勿論幸せそうに顔を緩める彼女のことも、どちらも同レベルくらい空恐ろしかった。「ずっと一緒」などとそんな不確かな言葉で何を得るのだろう、何を得るつもりなのだろう。けれどどこか一方でそう素直に言葉にしてしまえる彼女のことが、一禾は羨ましかった。自分はそんな風にはまさか振舞うことなど出来ないだろう。どうして、どうしてなのだろうか。
「やくそく、ですよ」
唇を引き上げて彼女は細い腕を一禾のほうに伸ばした。無意識にそれから逃れようとした自身を食い止めて、一禾はその小指に絡めとられる。
(ごめんね)
嘘を吐くのに罪悪感は邪魔でしかなかった。
(染ちゃんはあげられないから、俺で我慢してね)
この方法で本当に良かったのか、一禾は振り返ることはしない。前を向いて歩くなんて格好をつけても、結局怖いだけだ。自分の罪の重さに身震いするばかりで、上手く息が出来なくなるのは目に見えているから、過去を振り切って他人の振りをして、冷たい風を切って歩いていく。
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