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ジェネラリストは退屈 Ⅶ
紅夜が私服で二階から降りてきて、はっとすることがある。大抵は覚えているのだが、時々目が覚めるみたいに今日が休日だったことを、紅夜のそれで思い出すのだ。とは言っても、紅夜は時々休日でも学校に出向くことがあるから、それは絶対的な尺度ではないのだが。作りかけていたお弁当のおかずを、朝食のおかずにスライドさせることは容易い。ご飯を詰める前で良かったと、京義の分も合わせてふたつのお弁当箱の蓋を閉めてシェルフに仕舞う。一禾は体内時計が狂うのが嫌で、休日だろうが午後からの授業だろうが、兎に角朝から起きるようにしている。それでも時々、ホテルではない場所で目覚める時は、遅かったのね、と笑いながら頭を撫でられることがある。特別目覚ましをかけなくても、ホテルで眠る時は時間になれば自然に目が覚めるのだが、場所が変わるとそうはいかなかった。それは単なる習慣という意味以上のものを孕んでいるのだと思う。一禾はそこで許されているのだ、甘えて眠ることを許されている。細い指は一禾の無防備に赤い髪を梳いても、彼を揺すって起こそうとはしない。困った人ねと首を傾げることはあっても、朝食はまだかと急かされることはないのだ。それが良いことなのか悪いことなのか、一禾には分からない。ホテルでの食事関係のことは、確かに一禾が殆どひとりで行っているが、それは一禾が率先してそうしているだけのことだ。明日から当番性にしようと思うと、一禾さえ口を開けば、多少の文句を垂れるものはいるかもしれないが、そこに批判や非難はない。一禾は好きでやっているのだ、それがホテルの住人の共通認識である。しかし本当に好きでやっているのだろうか、一禾は上手く答えられない。
「おはよう、一禾さん」
「おはよう、紅夜くん」
昔から料理は好きだった。気分転換になったし、料理を作っている間は無心でいられた。何より美味しいと言って食べてくれる人が側にいたから、一禾は向上心をどこかで曲げたりはしなかった。その数がホテルに来てから増えて、確かに人数が増えた分負担も増えたけれど、一禾はそれを止めようと思ったことはない。夏衣は心配して今でも時々、別に一禾が全部やらなくても良いんだよと言ってくれるが、それをするのは皆のためというよりも、一禾自身のためというニュアンスが強かった。一禾には染や紅夜のように、ホテルにいるための明確な理由がない。染が行くことになったから、ついてきただけだ。本当はそうして一禾は、ここでの自分の存在意義というものを探っているのかもしれない。何か理由が無ければいてはいけないなんていうルールはないよと、夏衣は優しく言うのかもしれないけれど、それでも一禾はホテルにおける自分の存在の筋が通っていないような気がして、時々薄ら寒くなってしまう。ホテルから逃げ出すみたいに行方を暗ませるのも、きっと自分ひとりだけここに居てはいけないような、そんな気持ちにふと襲われることがあるのだ。その度に自分よりも手入れの行き届いた細い指に撫でられるだけで、本当に満足しているのか、一禾には分からない。
「あ、なんや、珍しいな、染さん」
ふと思考に紅夜の声が混ざって、一禾は殆ど無意識に味噌汁をかき回していた手を止めて、テーブルのほうを見遣った。休日になると、一禾とは一転、染はベッドに昼まで転がっているのが常だった。布団干すから早く起きろと、時々紅夜や夏衣に急かされて起きることはあっても、滅多なことで起きてこない。染に限って言えば、休日に予定が入っているなんて事もないのだ。その染が今日は如何したことなのか、目を擦りながらも既に部屋着に着替えて降りて来ている。紅夜の揶揄するような口調に、少しだけ口角を上げて恥ずかしそうにする。それは自覚しているのだろう。ぼんやりとふたりの何気ないやりとりを一禾はキッチンから眺めていたが、ふっと染が顔をこちらに向けた時に図らずとも、その視線とぶつかった。
「おはよう、一禾」
そうやって染がいつもみたいに笑った時に、一禾は何故かその視線から逃れたい衝動に駆られた。思わず視線を反らしそうになったぎりぎりのところで、早口で挨拶を呟き、鍋を覗くふりをしながら半身になる。何故だろう少しだけ、罪悪感が抑え切れなかった。
「あ、そうや、染さん、あれどうなったん」
「あれって?」
「なんや、付き合うってゆってたやん」
計ったようなタイミングで紅夜が切り出し、一禾は背中がぴりっと引き攣るのを感じた。
「あぁ・・・」
ぼんやりと眠そうに染が答える。随分悠長な間の取り方だった。染が付き合うと言っても、言い出したところで不可能だ。もう先手を打ってある。考えながら一禾は小さく溜め息を吐いた。あの子は本当に染のことを好きだったわけではない。本当に染のことを好きなのであれば、自分の誘いなんかにほいほいついて来ないだろう。だからあの子は違ったのだ。染が付き合うべき女の子ではなかったのだ。染に相応しい子は別にいる。そうやって自身の行為を正当化することに、疲れもするが慣れもした。一禾は染に相応しい誰かを此処でただ待っているわけではない。そんな風に考えながら、一禾は頭の隅で思っている。染めに相応しい人間なんて、現実は如何あれ、一禾自身がそう認める人間なんて、現れることはないのだ、永遠に。
「あれね、やっぱね・・・止めとく」
朝の眩しい光の中で、テーブルに座った染は俯いたままの格好で小さく呟いた。
「えー、何でなん!」
完全に面白がっていたはずの紅夜が、妙に神妙な声色で反論する。それに当てられたように、染は逃げ場を探して視線を落とした。染はもう彼女と接触したのか、それともあんなに釘を刺したのに彼女はやはり染を諦め切れなかったのか。どちらにしてもややこしいことに成りかねない。一禾は逃げ出したいような気持ちを抑えて、気にもならないような顔のままでキッチンに立っていた。
「だって、色々、考えて見たけど、やっぱり無理、そう、だし」
「・・・そんなん考える前から分かってたことやん」
「だっ・・・て、手紙、見てるだけで鳥肌・・・が」
「・・・重症やな、相変わらず」
「う・・・」
正しい紅夜の言葉はいつも痛くて、染はそれに肩を竦めて出来るだけ小さくなろうとする。
「っていうか、前から思っててんけど」
「ん?」
「染さんって、何で女のひと苦手なん?」
「・・・―――」
そうだ、それが普通の反応だ。夏衣は全てを知っているかのような顔をして、もしかしたら本当に知っているのかもしれないが、黙っているから一禾は何も言わなかった。勿論染は自分で口を割ることなどしないだろう。だから一禾さえ黙っていれば、それは他人に露見することはない事実だった。はっとして固まる染の様子を後方から伺ったが、その青い目はいつものように澄んでいて、それはいつか見たような強さを携えているようにも見えた。一禾は黙っていた。染がそれを何と紅夜に説明するのか、気にならなかったわけではないのだ。止めた方が良い、自分が何か気の利いたことでも言って、お茶を濁すことなど簡単なことなのだ。けれど一禾は黙っていた。黙って背骨を丸める染のことを、少しだけ後ろから眺めていた。
「昔、いろいろ、あって」
「へー・・・」
たどたどしく染は言って、言葉を切って少しだけ唇の端を上げた。紅夜はそのいつもとは違う染の様子を敏感に感じ取った様子で、可でも不可でもない相槌を何となく零した。やはり紅夜は頭が良い。ほっとしたのか残念なのか、一禾は自分でも良く分からない気持ちのまま、味噌汁に向き合い直った。
(終わったんだ)
全ては彼の知らないところで始まり、そして終わるのだ。まるで何事もなかったかのような自然さで。
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