192 / 302

報われざる彼のために

「あれ、今日海老(エビ)さんじゃないんですか」 開口一番「おはようございます」でも「お疲れ様です」でもなく、キヨがそう言ったので、片瀬は眉間に皺を寄せるしかなかった。それはどう聞いても海老原エビハラのほうが良かった、のように聞こえるのだが、一体どういうことなのだろうか。大学生のキヨは夕方から夜にかけてのシフトが多く、夜勤が多い片瀬とシフトが被ることは余りなかったが、従業員自体足りないくらいで回しているミモザにいれば、必然と個人同士の距離は近くなる。キヨと片瀬の間にも最早先輩後輩を示すものは敬語くらいしか残っていない。そんなキヨだったが、ミモザにアルバイトとして入ってきた当初は、肌もつやつやで目がきらきらしていて、かぶれていなくて可愛い大学生だと思ったが、そんな片瀬のファーストインプレッションは一ヶ月と持たずに闇に消えた。猫が剥がれたのか、買い被りだったのか、すっかり可愛げがなくなってしまったキヨは、制服の首周りをだらしなくない程度に緩めて、片瀬のリアクションなど鼻から興味がなさそうにカウンターの上に磨いていたグラスを注意深く並べている。おそらく彼の前の人間が片付けて行ったのだろう。カウンターの上は無駄なものがなく、随分綺麗になっていた。そこに肘を突いて、新たなグラスに手を伸ばすキヨの横顔を、意味ありげに何も言わずに見つめる。 「・・・何すか、片瀬さん」 「なにって」 「言いたいことあるんなら言ってくださいよ、じっと見てるだけなんて気持ち悪いっすよ」 「悪かったね、気持ち悪くて」 拗ねるように唇を尖らせると、キヨは分かり易く顔を顰めてみせた。こうして改めてキヨの顔を見ていると、彼も歳を取ったのだと実感する。そんなつもりではなかったのに、徐々に片瀬の思考はその妙な副産物に心惹かれている。ここの扉をはじめて潜って来た時、まだ18歳だったキヨはその容貌の全てに少年の欠片を残したままだった。それが一体どういうことなのか、あれからたった2年しか経っていないというのに、中身はどうあれ、キヨはすっかり大人になってしまった。今は服の下に隠れているが、肩だの肘だの、どんどん要らないものが削れていった。良く言えばシャープになって、悪く言えばぎすぎすしている。少年だったはずなのに、今ではすっかり成人男性になってしまっている。別段片瀬は年下が好きなわけではないが、もっと言えばむしろ年上の方がタイプなのだが、年月が少年だった彼を変化させたのだと思うと、もうあの頃のキヨに会うことは出来ないのだと思うと、何だか妙に感慨深くなってきてしまう。片瀬は唇を尖らせて、拗ねた真似をしていたのをすっかり忘れて、無意識にいつもの顔に戻ってぼんやりとグラスを磨くキヨを眺めていた。その視線を時折煩そうにしながら、キヨはそこから離れることも出来ないで仕方なくグラスを磨く手を軽快に動かしている。 「海老ちゃんは体調不良、お腹痛いんだって」 「へー、心配ですね」 「遂に孕ませたかな」 「ろくでもないこと言うの止めてください」 そう言ってまた眉間に皺を寄せる。そんな顔ばかりしていると、その表情がデフォルトになって戻らなくなるよと、冗談めかして言うつもりだったが、言葉が途切れて結局生成されなかった。キヨの手が無意識を装って、テーブルの下で柔らかい布を掴んだのが見えたからだ。 「・・・懲りねぇな、お前も」 「放っといてくださいよ」 恋をしている。耳を赤くして、キヨはカウンターから出て行った。恋をしているのだ、あの時確かに少年だったはずのこの男は。 「止めとけよ、クビになんぞ」 「片瀬さんが黙っててくれたら、クビになりませんよ」 「京義が喋るかもよ」 ぴかぴかに磨かれたカウンターに、肘どころか結局腕を全部下ろして、片瀬は店内の奥に控え目に設置されているピアノを懸命に磨いているキヨの背中に向かって、酷く小さく呟いた。自分でも意地の悪いことを、この年下の青年に吹聴しているという自覚はあった。きっと自覚しているのに止めようとしないところを、店長は好ましく思っていないのだろう。そこまで理解を追いつかせておいて尚、片瀬は変わらぬままだった。店内にかかっている音楽に、それは掻き消されてしまいそうなほどのボリュームだったにも拘らず、キヨの背中は分かり易くピクリと動いて手が止まった。余りにも考えていることが態度に出るキヨと、全くの無表情で何を考えているのか不明の京義。それにしても妙な取り合わせだ、食べ合わせが良さそうには思えない。ふたりが片瀬の知らないところで一体如何いう話をしているのか、片瀬には想像しようもなかったが、どう考えて見ても普通の会話が普通に成り立つとは思いにくい。キヨが一生懸命喋るのに、京義が時折的外れなことを言って、ふたりで困って沈黙するのがオチだろう。そう思うと茶化してしまったのが、何だか可哀想にも思えてくる。京義に至っては困ることすらしなさそうで、もうそれは想像の中ですら下降線を辿るばかりである。他にも良さそうな子なら一杯いただろう。如何してよりにもよってあんな攻略難度の高そうな人間を選ぶのだろうか、アレの相手がキヨに務まるとはとてもではないが思えない。一時キヨのことが好きだと傍から見ても丸分かりの女の子が、店に通い詰めていたことだってあったくらいなのだ。そういえば彼女は一体如何なったのだろう、最近は見かけないがもう諦めてしまったのだろうか。あんな無口で浮世離れした少年よりも、彼女のほうが遥かに望みにも体裁にも近かった。少なくとも片瀬にはそう思えた。 「俺って」 「ん?」 BGMのせいなのか、そのときのキヨの声はいつもより神妙で、酷く真剣に聞こえた。 「片瀬さん、俺って、そんなに見込みないと思いますか」 「・・・あー・・・」 背中のままのキヨが、こちらを振り返りもせずに続ける。一時気のせいだと思ったはずの真剣みも、こうなってみればそれを裏付けるための証拠にしかなり得ない。答えを濁そうと思って出た声は、何だか妙に低く響いて正直失敗したと思った。 「・・・お前は、あると思ってるの」 暗がりの中でキヨが振り返る。その顔つきは随分幼さが削がれて、嫌な歳のとり方をしたけれど、中身はまだそれに追いついていないのだなと、その表情を見ながら片瀬は考えた。どうやったらそう思えるのか、そう思ってしまうその思考の根拠は一体何なのか。第三者の片瀬にとっては不思議でしかない。キヨは素直で面倒見も良くて、いい奴だと思っている。けれど相手がアレでは話にならない。片瀬は京義が働き始めてから、何かと構ってやっているが、未だあの表情が緩んだ瞬間を見たことがない。演奏に拍手を貰っている時でさえ、困ったような居た堪れないような、そんな表情を浮かべているのが関の山で、大体は限りなく冷たい無表情だ。同じく夜勤に入ることの多い海老原は、そこが京義の良い所なのだと言っていたが、片瀬には良く分からない。確かに良く見れば美少年なのかもしれないが、京義はその他大勢からたった一人として選ばれる人間ではないだろう。それは勿論、恋愛対象としてという意味で。高校生じゃあるまいしと、どうやら本気らしいピアノ拭きにいつの間にか戻っているキヨの背中を見ながら、片瀬はひとりで溜め息を吐く。 「思ってますよ、信じてますし」 「あ、そ」 一体何を信じているのか、片瀬には分からない。 「まぁお前がクビになるぶんには俺は良いけど」 「・・・またそんな・・・俺がいなくなったら誰が片瀬さんとシフト代わってくれるんすか」 「お陰で京義に会えてんだろ、ちょっとは感謝しろよな」 「何で俺なんすか、アンタに感謝して欲しいよ!」 まぁどちらに転んでも自分には害はないだろうし、面白いことになりそうだから、店長の気苦労が増えるのは分かっているが、何だかんだと口を挟みながらも、結局のところ片瀬は最も奥までは踏み込まずに、放っておくことにしている。世の中には奇跡もある代わりに、どうにもならないこともあるのだ。考えながら片瀬は、憤慨するキヨに背を向けながら、ゆっくりと口角を引き上げた。

ともだちにシェアしよう!