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繋がれてもいいひと Ⅰ
季節は真冬へと移り変わっていた。2月も半ばに差し掛かり、吐く息は全て白く空気中に残る。その日、一禾がホテルに残っていたのは、ただの気まぐれだったのかもしれないし、他の何かだったのかもしれない。大学は1月末で授業は終わり、スケジュールに少しだけ空きができたこともその理由になるかもしれない。尤も一禾のスケジュールは染の行動を見越して作ってあるのだったが。その染も学校に行く必要がなくなると、あからさまに安どした様子で、ホテルから出ることもなく、ただ怠惰な生活を送って春休みを食いつぶしている。高校生の紅夜と京義は、3月末まで授業があるのでいつものペースで学校に行っている。ふたりに弁当を持たせるのは一禾の役割なので、結局一禾は学校が休みになったところで早起きを止めることは出来ない。紅夜はそんな一禾を気遣ったりもするのだが、一禾自身は割合それを苦痛とは思っていないところがあり、寧ろ楽しんでいるような節がある。そのふたりが学校に出かけてしまうと、ホテルの中は異様な静けさだった。染はまだ目覚めていないし、いつもならリビングで朝からお菓子を摘まんでいる夏衣も、朝から買い物に行くと珍しくホテルを空けていた。どんよりと曇った空を見上げながら、コーヒーを啜っていた。掃除でもするか、何にもない日は掃除でもするに限る、そう思い立って椅子を引いて立ち上がるとリビングの扉が開く音がした。てっきり夏衣が帰ってきたのだと思った。それにしては余りにも早かったが、忘れ物でもしたのだろうとしか思わなかった。
「あれ、染ちゃん」
「・・・おはよう、一禾」
しかし振り返ったそこには、染が眠そうな目をして立っていた。染がこんな時間に起きてくるのは珍しい。驚いている一禾の隣を、染は欠伸をしながら横切る。一禾は慌てて椅子を戻すとキッチンの方に向かった。染は寝ぼけた目のままリモコンに手を伸ばそうとする。
「染ちゃん、ご飯は?」
「あー・・・うん、食べる」
「ならテレビは後にして」
「・・・分かってる」
言いながら少し不服そうに、染は伸ばした手を引っ込めた。今日は朝一禾も少しだけ早く目覚めた。だから朝からチキンのサンドイッチなんていう少し凝ったものを作っていた。染の嗅覚はそれを捉えでもしたのかなと思うと、一禾は可笑しくてしようがなかった。
「何笑ってんの、一禾」
リビングのテーブルに頬をくっつけて、目ざとくそれを見つけた染が言う。
「何でも」
笑いながら一禾はそれに答えた。
昼過ぎになっても、夏衣は帰ってこなかった。キッチンの掃除は午前中に済み、やることがなくなった一禾は、自分の部屋にいるのも何となく気づまりだったので、リビングでコーヒーを飲んでいた。リビングには染もおり、風呂掃除が終わってからはソファーに寝転がって、リモコンを握ってぼんやりとテレビのワイドショーを見ている。自分が外で女の子と遊んでいる時、染は一体何をしているのだろうと思うことがこれまでも何度もあったのだが、おそらくこんな風に、何もない時間を何もなく過ごしているのだろうと思うと、何となく口角が上がるようなそんな気がする。染の世界は狭く、この分では今後も広がることはなさそうだ。
「ねぇ染ちゃん」
「んー・・・?」
「明日、遊びにでも行こうか」
「え?」
テレビの画面に釘付けだった目が、驚いて此方を向く。それに向かって一禾は微笑んで見せた。染にとってみれば外に遊びに出かけるなんて、敵地に乗り込むくらいのこととイコールなのだ。歓迎できるはずがない。染の驚いた顔は、すぐさままた一禾が意地悪なことを言い出したと思ったのだろう、くしゃっと歪んで泣きそうになる。それは成人の反応では決してなかったが、敢えて一禾は咎めなかった。
「・・・行かない」
「・・・あ、そ」
小声で呟くそれに、染が一層参ったような表情をする。断るくせに仲間外れにされるのは嫌なのだ。いよいよ困った染がソファーから降りて立ち上がりかけた時、普段は滅多に鳴らないインターフォンの音がした。ぴくりとそれに機敏に反応した染の左頬が引き攣る。
「・・・誰か来た!」
「珍しいな、宅急便かな?」
一禾はその染をそのままリビングに放置して、宅急便であることを想定して白鳥の判子を持ち、ポーチに向かった。一禾が近づくと自動ドアが反応してぱっと開く。しかしそこに立っていたのは、予想に反して宅急便のスタッフではなかった。
「こんにちは」
「・・・こんにちは」
そこに立っていたのは、まだ若い女の子だった。白いブラウスに濃紺のフレアスカートは、シンプルなものだったが見ただけで上質なものであることが分かった。尤も女の子のファッションに決して鈍感ではない一禾だったからなのかもしれないが。それだけでぴんときた。彼女の上品なオーラは一朝一夕で作ることが出来るわけではない。そういう環境で育った女性でなければ、あんな風には振舞えない。女の子の顔に見覚えはなかったから、自分に用があるわけではないことは分かったが、だったらその彼女が他の一体誰に用があってホテルまでやって来たのか。一度一禾の脳裏にホテルの面子が過ぎったが、該当しそうな人間がいそうにないことに落胆する。彼女、彼女はそう言って一禾に向かって丁寧に頭を下げた。ピンク色の唇から白い息が漏れるのを見ながら、部屋の延長で酷く薄着のまま出てきてしまったことを一禾は悟った。
「突然お邪魔して申し訳ありません。私、遊楽院 夢 と申します」
「・・・遊楽院・・・?」
妙に聞き覚えのある名字だ。
「白鳥夏衣様はご在宅でしょうか」
「・・・夏衣・・・」
記憶が蘇る。こうして扉を開けて見知らぬ女の子が立っていたのは、はじめてではない。一禾はパトロンの女の子たちには決して自宅を教えない。聞かれることは勿論山ほどあったし、彼女たちはその後には必ずと言って良いほど「行きたい」と口にした。しかし夏衣は「友達とルームシェアをしているから」という半分真実で半分嘘みたいな方便を使って、いつもその網を掻い潜っていた。だから彼女たちが一禾を目当てにホテルまでやって来ることはない。まずその線は有り得ない。こうして唐突にやって来た彼女たちは、ある種可笑しな共通点で繋がっている。彼女たちは口を揃えて夏衣の名前を口にしていたではないか。それもタイミングが悪く、いつも夏衣がいない時に。けれど今回は、前回とは随分雰囲気が違う。前回は見ただけで度肝を抜かれるロリータファッションに身を包んだ女の子だった。そこまで考えて一禾ははたと気が付いた。そしてその女の子も確か“遊楽院”と名乗ったはずだったのではなかったか。ぱっと視線を目の前の女の子に移す。すらりとした長身の彼女は、真冬だというのに薄着でその白い頬を赤く染めてそこに立っていた。たった一人で乗り込んできた割には、その瞳は強く輝き、一禾の返答を辛抱強く待っている。分からない、彼女が一禾の頭の中で、上手く前回の女の子と重ならない。
「・・・すみません」
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