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繋がれてもいいひと Ⅱ

「すみません」 呼びかけられて、一禾ははっとして顔を上げた。相変わらず軽装の彼女は、そこで頬を冷気に染めている。長い間考え込んでしまったらしい。慌てて一禾は口角を引き上げ、夢の訝しげな視線から逃れようと試みた。夏衣はいない、答えるべきことは決まっていた。 「夏衣さんは今外出していて留守なんですが・・・」 「そうですか」 夢は顔色一つ変えずに頷いた。おそらく遠方からはるばる来たのだろう。しかしこの寒い中、コートも着ずに立っている割に、一禾の答えに落胆の色ひとつも見せなかった。一禾は形だけでも申し訳ない様子を見せた自分の演技が馬鹿みたいに思えて、気付けば表情を真顔に戻していた。女性が訪ねてきて、このまま帰すわけにはいかないことは分かっていた。おそらく夢もそのつもりなのだろう。静謐な雰囲気に一つも乱れがないことは気になるが、今そんなことは如何でもいいとも言える。一禾は扉を左手で押さえて、彼女の通るスペースを作った。 「中でお待ちください、外は寒いでしょう」 「・・・よろしいのですか」 「どうぞ、お気遣いなく」 紳士的な笑みを浮かべても、彼女の反応は薄く、美人だがつまらない女だなと一禾は思った。一禾は単純で分かりやすい女の方が好きだった。ただ理由はその方が、こちらが女性に割く労力が少ないからという決して口外できない理由だったのだが。少しだけ会釈をして夢がポーチを潜る。一禾の出したスリッパに履き替えた彼女の足は細く、折れそうなか弱さと何処か筋の通った強さのようなものを感じた。ただならない雰囲気である。夏衣を訪ねてくる女はみんなそうだ、一禾ふと思った。その横顔、夢がはらりと落ちた栗毛を耳にかける仕草にやはり見覚えがあった。あの時も応対したのは自分だった。雰囲気が全然違うけれど。彼女の名前は一体何と言ったか、記憶の隅にあるようでないようで、一禾は無意識に眉間に皺を寄せて考えていた。そんなことを考えていたため、談話室に染が寝ころんでいるのを忘れて、彼女をそこまで案内してしまった。 「こちらでお待ちくださ・・・―――」 言い終わる前に染と目が合った。分かりやすく染の顔から血の気が引いていく。この距離で女を嗅ぎ取る染の能力に、感心している場合ではない。一禾は慌てて目の前で扉を閉めた。踏み出そうとしていた夢がぴたりと体を止め、いきなり扉を閉じた一禾を不思議そうに見やっている。 「・・・すみません、ちょっとお待ちください、ね」 「はぁ」 扉を少しだけ開けると、一禾はそこに体を滑り込ませた。案の定染は顔面蒼白で、ソファーの上にこれ以上ないくらい縮こまっている。 「いちか!」 そんな泣き出しそうな声を張り上げられても、これは自分のせいではない。若干うんざりしながら、一禾は溜め息を吐きながら額に手をやった。その時、曖昧だった記憶がふっと蘇った。記憶の中で彼女はフランス人形さながらの微笑で、染の二の腕を掴んでいた。全く自分の記憶は都合がよく、染が関連していることに限ってよく覚えている。しかも嫌な記憶ならば尚更だ。ふと冷静になって染の眼を見る。今日も良く晴れたスカイブルーだ。いつの間にか涙さえ浮かべている。彼女がどんなに攻撃的に振舞っても、大した害がないということがこの男には理解できない。そんなことは今さらだった。熟考すべき問題は別にある。 「染ちゃんそんな顔しないの、ナツのお客さんなんだって」 「だ、だからって!女を!家に!」 「叫ばない、聞こえるでしょ。静かにしてて、中に入れないから」 何か言いたそうに唇を動かした染の右手が、力なく宙を掻き、一禾の足を食い止める。ガラス戸の向こうでは、ぼやけたシルエットになって、夢がこちらに存在感を示している。この二重拘束は一体どういうことなのだろう、一禾は思わず眉間に皺が寄るのを感じていた。どうしようもなかった。談話室の扉は一つしかない。彼女をここに招き入れることは出来ない。染を外に避難させることも出来ない。一禾は震える染の頭を二回撫でるように触って、踵を返した。扉を開けると夢は思ったより近くに立っていて、廊下は足が凍るかと思うほど冷たい空気に満ちていた。夢がきょとんとした表情で一禾を見上げる。一禾は後ろ手で素早く扉を閉めた。染が短く叫ぶのが耳に入ったが、聞いていないふりをする。 「どうかされたんですか」 「すみません、うちの住人が、風邪ひいてましてね」 「・・・そうですか」 ここに居続けたらおそらく、一禾も彼女も両方とも風邪をひくことになるだろう。しかし彼女は何も言わなかった。相変わらず無表情だった。姉とは大違いだ。 「似てませんね、お姉さんと」 その言葉に弾かれたように夢が顔を上げて、一禾は突然のことに吃驚した。夏衣が帰ってくるまでの時間稼ぎの世間話のつもりだった。表情のなかった顔に、わずかに赤みがさして人間味が増す。一禾はそれを見ながら思った、似ていないのは雰囲気だ、顔のつくりは確かにそっくりであった。夢は彼女ほど表情豊かではないので分かり難いが、この顔にはどこか見覚えがある。下に伸びるまつ毛が、一度合わさってぱちりと音を立てたかと思った。実際はそんなことはない。ただ無音なだけだ。 「なにか」 「やはり、兄は・・・いえ、姉はここに寄ったんですね」 「・・・ええ、来られましたけど・・・何ヶ月か前」 「・・・やはり・・・夏衣様は嘘を・・・」 ぼそぼそと小声で夢は呟いた。後半は全く聞き取れなかったが、確かに夏衣の名前を呼んだように思う。無表情だった彼女の顔には影が差し、どこか憎々しげに呟かれるその名前は、一禾も良く知っている人間の名前だ。この女は知っているのだと思った、酷く直観的に。一禾も、他のホテルの住人も知らない夏衣の何かを。知っていなければあんな顔は出来ない。できないはずだと一禾は思った、根拠はなかったけれども。夏衣は謎の部分が多すぎる。本人が意図的に隠さない限り、一緒に生活していてこんな風には決してならないだろう。彼女の一件もそうだ。あの日一日だけ訪ねてきた彼女と名乗る人物と、夏衣は一体いつコンタクトを取っていたのか。形跡がまるで見当たらない、不思議なことに、こんなに近くにいるのに。 「夏衣さんに何の御用なんですか」 一禾は彼女の豹変ぶりに気付かないふりをして、続けて世間話を装って尋ねた。この女は知っている。夏衣のことをおそらく、自分たちよりもより明確に。 「・・・夏衣様には・・・―――」 桜色の唇が開いた。そこから出てきたのは真実だったに違いない。 「夢ちゃん」 その時空気を割いて声が響いた。夢が言葉を切ってゆっくりと振り返る。一禾も顔を上げた。そこにはいつもの体よりも一回り大きいセーターを着込んだ夏衣が、出かけたままの姿で立っていた。買い物の袋すら持っていない。可笑しい、と一禾は思った。タイミングも良すぎる。夢は夏衣の方を見、その姿を目におさめている割に、何も言わなかった。まるで悪戯を母親に見つかった子どもみたいに、一禾はそしておそらく夢も、バツの悪さに首まで浸かって何も言えないでいた。

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