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繋がれてもいいひと Ⅲ

「夢ちゃん」 空気は乾燥していた、痛いほどに。 「遠いところよく来たね。迷わなかった?」 おそらく夢は夏衣に連絡などしていないだろう。一禾は何となく彼女の雰囲気からそうだろうことは理解していた。そして多分、夏衣はこの家に女を不用意に招いたり上げたりしない。それは染がいることも、大いなる要因の一つになっているだろうが、おそらく自分のことをよく知る人間を、夏衣はここに招かないようにしているのだ。意図的に、何かを自分たちの目から隠すために、何を?一禾は思った。考えてもおそらく想像もつかないだろうことは分かっていた。しかしその時夏衣は、まるで彼女の来訪を知っていたかのように振舞った。これはポーズだ、おそらく一禾にそう見せるための。結果的には一禾の洞察の方が勝って、それは意味をなさなかったが、夏衣は決してその笑みを崩そうとしなかった。押し切るつもりだ、一禾は思った。けれど夏衣がそうまでして彼女のことを一禾から、そしてホテルから遠ざけようとする意味が分からない。 「夏衣様」 「話は外で聞くよ」 夢の言葉など、何一つ聞こえていないようだった。一禾のことも眼中にはないようであった。冷静に振舞っているように見えるが、夏衣が何かに焦らされているのは、一禾の目にも明らかだった。ただ何を焦っているのか分からない。寒空の下に彼女を誘い、夏衣はくるりとこちらに背を向けた。容赦のない姿だった。一禾の目の前でふっと夢が動く。彼女はその言葉に何の反論もせず、薄着のままふらふらと夏衣に誘導されるまま、玄関に向かっていった。一禾はどうしようかと一瞬迷ったが、彼女の背中を追いかけた。 「ナツ、こんなに寒いのに外に連れ出すの良くないんじゃない」 何と言って良いのか分からず、一禾はただそう言うのが精一杯だった。何となくこのまま夢を見送ってはいけないような気がした。 「私は大丈夫ですから」 それに答えたのは夏衣ではなく夢だった。ふたりともこちらを振り返ることなく、後は無言でポーチを出て行った。一禾はホテルの中に一人だけ取り残されて、暫く呆然としていた。何故だか酷く悪いことをした気分だった。彼女と自分で、何か良くないことを仕出かし、彼女だけが夏衣に叱られるのではないかという根拠のない不安が、漠然としてあった。一体何が一禾にそう思わせたのか分からない。ただ痛いほど乾燥した空気の中、一禾はひとりそのことだけを強く感じていたのだった。 ホテルから夏衣は黙って前を歩いていた。酷く冷たい風に晒され、体は芯まで冷え切っていたが、夢は何も言わなかった。あの時自分はあの赤毛の男に一体何と言おうとしたのか。夏衣を信頼しきっているあの男に、平和に暮らしているあのホテルの住人に、教えてやりたかった、本当のことを。夏衣が本当はどんな人間なのか、意地悪く呟いてやろうと思った。それは夏衣が自分に吐いた嘘に対する代償になると思った。自分にはその権利があるのではないかと思った。思わずにはいられなかった。それくらいのことは、夏衣は自分にしていると思った。夢は俯いて唇を噛んだ。兄の逃亡を助けたのは夏衣だ、夏衣に違いない。 「何の話をしていたの、一禾と」 前を行く夏衣がポツリと呟いて、夢は一瞬何の話を彼がしているのか分からなくなった。3秒後にあの赤い髪の男の名前を夏衣が呼んだのだと気付く。聞いていなかった、名前など。夢にとってはどうでもいいことだったからだ。黙っていると夏衣がちらりと振り返った。氷のように冷たい眼差しが、一瞬夢に当たって光みたいに砕ける。夏衣は咎めているのだと思った。だからこんなに冷たい目が出来るのだと思った。夢はもう一度唇を噛んだ。そうしないと負けそうだと思ったからだ。 「何も話しておりません」 「頼むよ、夢ちゃん」 「はい」 「ここで俺は白鳥じゃない、ただのホテルのオーナーなんだから、変なこと言わないで」 聞きながら嘘だと思った。夏衣が白鳥で居なくてもいい場所など、どこにもないことを夢は知っていた。おそらく夏衣も知っているのだろう、だからあんなに露見することを恐れているのだ。無様だと思った。無様に違いなかった。そんなことを恐れるなんて。 「何しに来たの」 大体分かるけど、と夏衣は笑いながら言った。勝ち誇った笑いだった、もしかしたら夏衣は自分のことをそうして馬鹿にしていたかもしれない。夢はその背中を見ていた。芽生えてきた複雑な感情に、名前は付けようがなかった。相変わらず華奢なひとであった。会う度に一回りずつ、小さくなっていっている気配がある、そんなことはあるわけないのに。虫のように細い手が、体より大きいセーターの端から漏れ出ている。ゆらゆら眼前を動くそれを眺めていると、人間のそれとはかけ離れた存在に思えてくる、不思議だ。年上のくせに少年の面持ちをして、雰囲気は大人の持っているそれだ。アンバランスが一つの人間の中を犇めき合い、上手く調和していないような印象だった。夏衣はいつ見ても不安定だ。細くて浮ついていて乾いている。それなのに夢はその夏衣と上手く争うことができないし、勝利することも出来ないでいる。彼は白鳥で、それを自覚しているだけで頗る強い。だから夢は敵わない、それだけのことに、それだけのことで。敵わないことを毎回思い知らされるのだ。けれど今日は違うと思った。兄のことで負けて帰るわけにはいかなかった。 「相談があります」 「なに」 「結婚していただきたいのです、夏衣様」 「・・・―――」 夏衣の笑っていた顔が、一瞬だけ引き攣って、夢は勝ったと思った。夏衣はこんなことを言われるなどと想定してはいなかっただろう。それだけで勝ったと思った。引き攣った表情をすぐ無に戻して、夏衣は唇をぺろりと舐めた。乾いている。どこもかしこも。 「気持ちの悪いこと、言わないで欲しいな」 「本気です。夏衣様」 「・・・どういうつもりなの、夢ちゃん」 動揺していた、あからさまに。夏衣はそんな自分を落ち着けるために溜め息を吐いて、その桃色を細めて見せた。夢は無表情で夏衣と目を合わそうとしなかった。東京で夏衣は眼鏡をかけている。レンズの厚さだけ向こうにある瞳は、それだけでいつもの魔力を失っている。白鳥は皆、呪われているからあの目をしている。あの目をしているから呪われているのだと、父親が憎々しげに呟いたのはもうずっと昔のことだったのに、夢は覚えていた。父親があの目を愛し、また翻弄されている様は滑稽だった。もしかしたら無様だったかもしれない。だから夢はあの目が嫌いだった。兄も嫌いだったのだと思う。だから自分のことを敢えて「桃」だと名乗ったのだ。その目の不気味さに、夏衣が気付けばいいと思って。 「本気です。夏衣様」 「・・・君は俺がどういう人間か知っているでしょう。どういう立場なのかも分かっているし。それなのにそんなことが言えるなんて考えられないよ」 「できない相談ではないと思っております」 「できないよ。分かるでしょう」 夏衣は呆れているようであった。首を竦めて俯く夢のことを見ていた。暫くどちらとも何も言わない、無音の時間が続いた。夏衣は困っていた。夢にはそれが嬉しかった、何故か。

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