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繋がれてもいいひと Ⅳ

「わきまえなよ、夢ちゃん」 夏衣は呆れていた。呆れてはいたが、怒ってはいなかった。少なくともその時の夢の目にはそう見えた。動揺は一瞬で、夏衣は元に戻っていた。つまらない、口惜しい、思いながら夢は下唇を噛んだ。ワンサイズ大き目の服を着ている夏衣は、おそらくその体の線を隠そうとしているのだろうが、だとすれば逆効果だと思った。その大き目の服から伸びる細い手首や、くびれたウエストは、より目立っているように思える。そんな弱弱しい体で、咳をすればあばらが折れてしまいそうな柔い体で、僅かな困惑を湛えて夏衣は立っていた。夢から少し離れた場所に。けれど夏衣の意志は、そういう見た目のか弱さとは無関係に強靭で決して揺るがないもので、夢はそれをよく知っているような気がした。夏衣とは兄のこともあり、昔からよく顔を合わせる間柄だったが、まさかこんな話をすることになろうとは微塵も思っていなかった。おそらくあの頃の夏衣も、こんなことは予想もしなかっただろう。賢二が自分の傍からいなくなってしまったことも。 「分かっております」 「・・・そうは思えないけど」 言いながら口元をゆがめた夏衣は、強くありながら脆く、美しい人だと夢は思った。昔から夏衣は他の白鳥とは段違いだと皆噂はしていたけれど、実物の魔力は物凄く、それに飲み込まれそうになって、夢は自分の方が余程動揺している現実に気付く。 「俺は嫡男だよ、君と結婚できるわけないだろう」 夏衣は愛や恋を語ろうとはしなかった。一度も。君は僕のことを愛していないだろうとか、僕は君のことを愛してはいないし、などと言わなかった。そんな上辺で物事を片づけられていないだけ、むしろマシだと思うべきなのか、夢には分からなかったが、今更そんなもので夏衣に太刀打ちできるとは思っていなかった。白鳥である夏衣は勿論、遊楽院の跡継ぎになる自分は、結婚して家を守る義務があった。あんな家でも守る必要があった。兄が見捨てて逃げた、あんな家でも。 「・・・でも夏衣様は」 「なに」 「夏衣様は白鳥にはならないのでしょう」 「・・・―――」 俯いていたので顔は分からなかったが、一瞬のことで夏衣が息を飲んだのが分かった。急に空気がピンと張りつめ、息が出来なくなるかと思った。誰にもさせてはいけなかった。命令すれば使用人の誰かが、夏衣のところに行って婚約話を通すことだってできた。けれど夢は今回その方法を選ばなかった。自分が直接出向くから意味があると思った。夏衣のハートに杭を打ち込めるとすれば、それは誰かの手を借りていては行えない。決して行えないだろう。だから夢は直接出向いたのだ。ろくに一人で外出したこともないような箱入りだったが、何でもやればできるものだと東京駅に降り立った時に思った。その排気ガスで汚れた空気を吸って、夏衣は此処で生きているのだと思った。こんなところでやり直した白鳥以外の人生に、夢は一体どんな意味があるのか分からなかったけれども。夏衣は白鳥で、それ以外の者にはなれない。それは夏衣が一番理解しており、そして同時に恐れていることなのだろう。だからあんなに頑なに、あのホテルから白鳥の匂いを追い出そうとした。あの時夏衣が見せた。細い目の奥の歪みは、おそらくそういう意味だったのだろう。 「・・・どういう意味」 「夏衣様は白鳥にはならない。何処の誰にもなるおつもりがないのなら、院家の再興に手を貸していただいても良いのではないでしょうか」 桜色の唇がふっと息を吐き出した。それは夢を馬鹿にしているようにも、自嘲しているようにも見えた。 「俺は白鳥にはなれないだろうって、君たちは踏んでるの?それは俺がお父様の奴隷だから?」 「・・・」 「黙るの、卑怯だね。君の言いたいことはそういうことだろう?それを俺にわざわざ教えに来てくれたんだろう?ご苦労なことだったね」 「・・・夏衣様」 急に饒舌になった夏衣は、白い息を吐き出しながら捲くし立てた。事実だった。夢は何も言えなかった、卑怯だと言われても確かにそうだとしか思えなかった。夏衣のそのことに纏わる噂は、おそらく事実を上回って散乱していて、夏衣は常にそういう好奇の目に晒されている。だから東京なんかに身を隠して、時々しか実家に戻らない。それでも時々夏衣が実家に戻るのは、戻らざるを得ない理由があるからだと、俗っぽく誰かが囁く。白鳥は体を患ってから、満足に一人で歩くことも出来ないのに、一体どういう風に夏衣と性行為に及んでいるのだろうかと、やはり誰かが囁く。一番白鳥に近い夏衣が、一番白鳥から遠い存在だと、白鳥も馬鹿ではないから、まさか夏衣を跡継ぎに指名はしないだろうと、俗っぽくしかしどこか真実めいた口調で誰もが囁く。その噂が耳に入ったのはいつ頃だったのだろう。はじめは夏衣があまりに他の白鳥と違うから、誰かが嫉妬してそんなことを言い出したのだろうと思っていた。そんなことはあるわけがなかった、女装なんていう目も当てられない奇行に走る兄の傍で、いつまでも友達でい続けてくれた夏衣のことを、どうしてそんな風に思えるのだろう。暫く夢はそう信じて疑わなかった。何が自分にそれを真実だと分からせたのか、もう思い出せないが、大人になるにつれて噂は誇張して描かれているが、大筋に間違いはないのだと知った。時折黒いスーツを纏って痩せた体で夏衣が本家を訪れるたびに、夢は何とも言えない複雑な気持ちになった。その首や腕の内側に残された鬱血の跡や、縄の跡は、屋敷の中で行われていることの証明になり得た。目を反らす夢に夏衣は何も言わなかった。 『大きくなったね、夢ちゃん』 夏衣はいつでも、兄の親友で間違いはなかった。けれど自分は多分、同じ瞳と心で夏衣のことを見ることは出来なくなっていた。兄が失踪して、そしてまた枷が一つ増えて、それでも生きなければならない夏衣のことを考えた。沢山考えたけれど、何にも辿り着けなかった。悲しいくらいにぽつんと空いていた。それが兄を失った後の気持ちなのだと、気付くことが出来なかった。 「悪いお話ではないはずです」 「何を言っているのか自分で分かっているの、夢ちゃん」 「あなたも白鳥から逃れられる、そうでしょう、夏衣様」 「・・・そんなことできるわけないでしょ」 小さく呟いて夏衣は、俯いた。 「俺は白鳥から逃れることなんてできないよ。分かってるでしょう」 「そんなこと・・・」 「俺は賢二くんとは違うの」 「・・・―――」 不意に兄の名前が出てきて、夢は急に首を絞められたみたいに言葉が出なくなって焦った。予想外だった。てっきりとぼけるものだと思っていた。やはり兄の失踪にこの男は関与している。白鳥の権力でも行使したのか、それとも別のルートを持っているのか分からないが、確実に一枚噛んでいる。追求したいと思った。真実が知りたかった。兄が何を思っていたのか、夢はもう知ることが出来ないから。伏せた目の美しい桃色が、何かを湛えて静かに凪いでいた。夏衣は此処では自分は白鳥ではなくオーナーだと言い、白鳥以外の何者にもなれないとうそぶく。それは一体何なのだろう、それは一体どういう種類の感情であり、感覚なのだろう。夢は自分には分からないと思った。不意に出てきた兄の名前に黙らざるを得ない状況を自分で作り出して、この人は一体何を守るつもりでいるのだろう。そんな、自分のことも不用意に傷つけてしまう爪を持っているくせに。 「言いなよ」 「・・・え?」 「その話をしに来たんだろう」 「・・・―――」 読んでいる。一歩、二歩先まで。夏衣が目を伏せたまま呟く。まるで自分が責められているみたいに苦しい表情で、その桜色の唇が呟くのは兄の名前だった。

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