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繋がれてもいいひと Ⅴ

夏衣は戦うつもりでいる、夢は悟った。 「何を仰っているのか分かりません」 その言葉の冷たさに喉を焼かれそうだった。悔しくて俯いた。本当は泣いて縋って教えて欲しかった、兄の居場所をこの人は知っているのに、それを自分は肯定することが出来ないなんてことがあるのだろうか。夢は自分で自分のことが信じられなくなりながら、目を瞑ると家を出る前に心配そうな表情で、肩を叩いてきた母親の姿が過ぎるのに、そろそろ耐えられなくなってきた。 「うちに、兄など居りませんから」 「・・・―――」 夏衣はその桃色を見開き、心底驚いたような表情を浮かべた。強くあらなければならなかった。家を継ぐということはそういうことだ。誰にも頼ることが出来ないということだ。夢はそれを背負って生きていくことを、託されてしまった以上逃げることは出来ないのだ。何からも。そしておそらくその運命は、夏衣も同じなのだ。そのなんと重いことだろう。受け渡されて初めて知ったその重さに、耐えきれなくて涙が出そうだ。こんなもの捨てて逃げてしまいたかった。兄が逃げたはずの何処かに。 「そういうことか」 「・・・」 「紙一枚だもんね、人間の存在なんて、幾らでもなかったことにできる。常套手段だ、忘れてたよ」 諦めたように夏衣は笑って、でもその表情に先ほどまでの覇気はもうすでになかった。夏衣は諦め、そして見捨てた。院家が賢二を見捨てたようにまた、同じように夏衣はこの瞬間夢を、そして夢が背負っていくものを見捨てた。もう関わらないとその美しい横顔は雄弁に語っていた。夢は自分も諦めるべきなのだろうかと思った。ここまで来てのこのこ帰れないという思いは確かにあったが、最早こうなった以上、夏衣は翻らないだろうことも目に見えていた。親友を失って途方に暮れる夏衣は、兄を失った自分とよく似ていると思った。親友の存在を信じている夏衣と、なかったことにするしかなかった自分と、本当はどちらの方が辛いのだろうと思ったが、夏衣にそんなことを問いただすことは出来ない。答えなどあるようでなかった。 「夏衣様」 「帰りなよ。もう君の顔を見ていたくない」 傷ついていた、分かりやすいほどに。夢はその背中に一歩近づいて、何を言うべきか迷っていた。何も言うべきではないように思えた。 「兄の運命は私が背負っています」 けれど、何か言ってやりたかった。自分だけ、自分ひとりだけ酷く悲しみの中にいるような、そんな傲慢さが夏衣にはあった。傷つき、しかしその傷を癒そうともせず、ただ晒して俯いている。そうすれば慰めてもらえるから、そうすれば救ってもらえるから、誰かが優しい言葉をかけてくれるから、夏衣は傲慢だ。そんな風に自分ひとり、苦しいふりが出来る夏衣は、誰よりも傲慢で自分本位だ。許されなかった。傷ついているのは夏衣だけではない、苦しいわけではない。そう言ってやりたかった。兄の背中を見ていた。生まれた時からずっと兄は、傍にいたのだ。当然傍にいるはずの存在だった。どんなに奇行に走っても、夢はそれを知っていた。兄は院家の運命から逃れるために、ただ奇行を演じているだけなのだと、夢は知っていた。だから黙っていた。兄を逃がしてやりたかった。そんな重たい運命なら、譲ってくれればいいと思った。 「逃げたかったのなら、逃げたらいい。それが兄の望みなら、私は叶えて差し上げるつもりでいます」 「・・・夢ちゃん」 「いけませんか、夏衣様。私は・・・間違っていますか」 「・・・―――」 譲って、自由になってくれればいいと思っていた。兄には自由であることの方が似合っていたから。いつも前向きで笑顔で、決して弱音を吐かないその人のことを、夢は誇りに思っていた。夏衣もきっと眩しい気持ちで見ていたのだろう、決して手の届かない穴の底から。自分たちは良く似ている。同じところに立っているから、良く似ている。似ているから腹が立つ、傷つけ合ってもしまう。 「ごめんね、違うよ」 「・・・」 「そうか、俺、てっきり賢二くんは皆に見放されていたんだと思ってた。でも違ったんだね、安心したよ」 「・・・でも、わたしは、お兄様に、何も・・・」 「俺もだ。一緒だね、夢ちゃん」 そう言って夏衣は夢の肩に手をやった。下を向くとぽろぽろ涙が零れてきて、夢は歯を食い縛ってそれに耐えていた。何もしてあげることが出来なかった。逃げるほど辛かった兄の背中をずっと傍で見ていたのに、何もできないでいた。兄がいたならきっと、そんなことは何も必要ない、心配するなと笑って言うだろう。そういう人だった。だから余計に何かしてあげたかった。自分にできることはなんだろうと思っていた。院家の歪んだ空気の中、太陽みたいに笑う兄だけが異質で異物だった。 「申し訳・・・ありません、夏衣様」 「もういいよ、良いんだ」 吹きさらしの風に、夏衣の声は酷く優しく響いた。その胸に飛び込んで泣けたら、もっと良いだろうと思いながら夢は実行できないでいる。夏衣は誰かの肩を抱いて慰めるほど、安定した存在ではない。頼れればともに崩れてしまう、そういう脆さと共にある。夢にはそれが分かった。だから自分の足で立っていなければならないことも分かっていた。夏衣はそれが分かっている。分かっていてやっているのだ。夏衣は決して手に入らないし、白鳥も手に入らない。自分の力で生きていかなければいけないのだと思って、夢は大きく息を吸った。冷たい空気が肺の中まで入って、体温がぐっと下がったような気がした。 「帰ります。ご迷惑を、おかけしました」 「ううん、大変だね。夢ちゃんも。俺にできることがあれば言って。手は貸すから」 「・・・はい」 結婚に頷くことが一番簡単だと、もう一度言おうとして夢は結局言うことが出来なかった。遠くを見ている夏衣の横顔が、酷く美しくて寂しそうだったからかもしれない。夏衣はそういう顔をよくしていたような気もするし、こんな表情ははじめて見るような気もする。夢は夏衣にもう一度深く頭を下げると、くるりと背を向けて歩き出した。自分で歩かなければいけない。手ぶらで帰ってきた自分を、きっと母は責めるし、父は苦い顔をするだろう。そして兄のことをまた罵るのだろう。それでも戦わなければならない、兄の捨てた家の為に。いつかその背中を押してしまった、その背中を止めることが出来なかった、それが自分の運命なのだと受け入れて生きていかなければいけない。足が重くてもつれて、前に進むことが出来なさそうだと夢は思いながら自嘲した。それでもどこかで兄が自由に生きていてくれるのならば、自分はそれで大丈夫なのだと繰り返して思う。そうしなければきっと自分もいつか狂ってしまいそうで怖かった。それとも早く狂ってしまった方が楽なのだろうか。 「夢ちゃん」 ふと呼び止められて、夢は反射的に振り返った。思ったより夏衣は遠くに立っていた。ぶかぶかのセーターが強い風に煽られている。きっと防寒の役目はとっくに放棄している。節足動物みたいな夏衣の腕が動いて、その榛色の髪の毛を梳くって止める。 「大きくなったね」 夏衣が笑う、桃色が細められて美しさがさらさらと空気中に溶けて、遠く離れた夢のところにも届きそうだ。夢はそれを見ながら、ここが東京という見知らぬ場所などではなく、自分たちが生きていた、自分たちが息をしていた、あの狂った屋敷の中なのではないかと、一瞬思った。

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