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繋がれてもいいひと Ⅶ

夏衣がホテルに帰ってきたのは、出て行ってから2時間程経った後だった。玄関を通ると談話室の前に待ち構えたみたいに一禾が立っていて、夏衣はそれを見つけると心底面倒くさいと思った。これが染や京義ならば少しは話をしようという気も起きたかもしれないが、このタイミングで一禾には会いたくなかった。それを見越してこの男はきっとそこに立っている。腕を組んで長い足を持て余しながら。ホテルの中は随分暖かい、夏衣は自分がコートの一つも持たずに着の身着のままでほとんど夢を引っ張り出すみたいに出て行ったことを、今更少し後悔していた。夢が賢いことは分かっていたし、余計なことを言うような馬鹿なことはしないことも冷静になれば分かったようなものだったが、いつものホテルの様相の中に急に見知った顔が混ざっていることが、夏衣はどうしても許すことが出来なくてそんなあからさまな方法しか取れなかった。一禾は夏衣を見つけると小首を傾げるように首の角度を僅かに変えた。一禾は賢いから少し、こういう時は始末が悪い。 「おかえり、ナツ」 「ただいま、嬉しいよ、一禾。待っててくれるなんて」 いつもの調子で茶化すと、一禾はわずかに眉間に皺を寄せて夏からそっと視線を外した。それで怯んで諦めてくれたらいいと思ったけれど、一禾はその場所を動かなかった。どうにも思い通りにならないところが一禾らしいと思う。考えながら夏衣は小さくため息を吐く。 「遊楽院、さん?夢ちゃんっていったっけ、あの子どうしたの」 「あぁ、夢ちゃんなら帰ったよ」 「帰ったの?ご飯くらいごちそうすればいいのに、ナツに会いに来たんじゃないの」 一禾は外で会う女の子にそんなことはしていないくせに、と思ったが夏衣はそれを言うことは出来なかった。夢と二人で外食など、味の分からぬものをただふたりで咀嚼する時間の無駄に寒気すらする。しかしそれを一禾に説明するわけにはいかずに夏衣は困ってしまった。夢と自分はそういう関係ではないのだと言うと、それはそれで釈明しているみたいで胸糞悪い。 「ついでに寄ったんだって、他に寄るところのついでに」 「ふーん」 いつもの夏衣の口から出まかせを、一禾は全く信じていない口調で相槌を打つ。一禾の目はまだ何かを探るみたいに動いている。 「そんなカッコで、外寒かったでしょ。コートくらい着て行けばよかったのに」 「心配してくれてるの、一禾らしくもない」 また茶化して笑うと一禾はそのミルクティー色の目を細めた。 「・・・そうだよ」 「・・・―――」 「ナツはどんどん小さくなっていくし、余計なことばっかりべらべらしゃべる割に、本当のことは俺たちには何も言わない」 「本当のことって」 とん、と一禾に左胸を指さされて、夏衣は息が喉に詰まる感覚がした。茶化して誤魔化して逃げようとしたけれど、ふっと見上げたところで一禾の真摯な目とぶつかる。それにやっぱり何も言えずに夏衣は開いた唇を閉じた。本当のこととは一体何なのだろうか、ここにいる時は、ホテルにいる時は此処のオーナーでそれ以上の意味を自分は持ったりはしないはずなのに。そこで一禾が何かを探りながら一方で、何かにひどく腹を立てているのを夏衣は感じた。夏衣は一禾から目を反らして、買った時はぴったりだったはずのセーターの肩を抱いた。痩せて尖った肩がそこを破るまでまだ少しありそうだから大丈夫だとひとりで思っていた。 「本当のことって、何だよ。俺はいつも本当のことしか、言わないよ」 「嘘ばっか」 吐き捨てるように一禾が言って、夏衣が抱いた肩を、夏衣の手の上から掴んだ。ハッとして顔を上げると、一禾はやはりそこで目を吊り上げて怒っているような顔をしていた。如何して他人にそんな風に真摯になれるのか、夏衣には分からない。体を捻ってそれから逃れようとしたけれど、一禾の力は強かった。彼の力が強いのか、それともすっかり夏衣が非力になってしまったのか分からない。逃れる術を失って夏衣は俯いた。一禾に言えることなんて何もないことくらい、初めから分かっていた。 「言いたくないんなら、別にいいけど」 「・・・―――」 「そんな風にあからさまに隠されると、なんか腹立つって言うか」 「・・・優しいね、一禾は。好きになっちゃいそう」 ははっと笑った声が唇から漏れて、ホテルの床に落ちて行った。 「うるさい、ちゃんと聞いて」 けれどそんな誤魔化し一禾には全く通用しなくて、夏衣はひっそりと一禾には見えないように溜め息を吐いた。握られた手が肩が痛い。けれどそれだけ一禾は真剣に何かを伝えようとしているのだと思えた。夏衣が決して頷くことが出来ない何かを、一禾はそこで言おうとしているのは分かっていた。言われても困るし、聞かれても困る。夏衣は此処にいる以上、オーナー以外の意味を持たない。 「前も言ったけど、俺はナツのこと心配してるんだよ。食事作ってるのも俺だし」 「だから一禾のご飯は美味しいしちゃんと食べてるでしょ、俺」 「・・・言いたくないんなら、詮索はしないけど」 している、思いながらすっと視線を上げると、一禾は少し諦めたような顔をして、夏衣の肩から手を離した。突然自由になった体は軽くて、夏衣は少しだけ目眩がした。一禾のそういう甘いところも、優しいところも、お節介なところも、変に勘が鋭いところも、本当は吐き気がするほど大嫌いだった。けれどそういう目は嫌いではなかったし、その目で見られるのも気分が良かった。いつも染ばかり追いかけている視線が、今は惜しみなく自分に注がれている事実が、少しだけ心地よかった。 「でも俺は、ちょっとだけ寂しいよ、ナツ」 「・・・なにが」 「だって一緒に住んでるのに、毎日顔合わせてるのに、俺たちはナツのこと、何も知らない」 「何も知らないって、そんなことないでしょ」 一禾は言葉を切って夏衣の目を正面から見返してきた。眼鏡があって良かった。それに射抜かれなくて済むからだ。夏衣はそれから無意識に視線を反らしていた。 「分かってるくせに」 「・・・なにが」 「別にいいよ、隠したいなら」 「・・・だからなにも」 「俺だって勝手に、心配するから」 すっと一禾が夏衣の傍を通って、それから玄関前を横切ると自室に続く階段を上って行った。夏衣はそれを無意識に目で追う。一禾は姿が消えるまで、一度も振り返らなかった。それは決意で宣言だった。面倒臭い、考えながら夏衣は下唇を噛んだ。そんなこと言われたところで夏衣は口を割るわけには行けないし、ここにいる以上本当のことだって言えない。 (本当のことって、なに) (ここにいる俺だって、本当だよ、一禾) 夏衣は首に手をやった。そこには縄も首輪もついていない。

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