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透明な愛の正体
「もう少し優しくしてやれよ、唯ちゃん」
振り返ったその先で、嵐は不服そうな顔をして立っていた。どうして彼がそんな顔をしているのか分からない。唯は煙草のフィルターを噛んだ。先ほどライターを盗まれてしまって、それに火をつけることが出来ない。唯が不快そうな顔をしたのがいけなかったのか、嵐はその表情を少しだけ寂しそうなものに変えた。苛々しながら、唯はいつもの灰色の回転椅子に座った。学校の備品で安物のそれは唯が座るとぎしぎしと軋んだ音を立てる。まだ嵐はそこから退く気配がない。唇から煙草を取り、机の上に放った。
「窃盗は立派な犯罪だ」
「何馬鹿なこと言ってんだよ」
「馬鹿とはなんだ、馬鹿とは。俺はアメリカの大学を出てるんだぞ、しかも飛び級してるんだぞ、頭のことで誰かに何か言われたことはこれまで一度もない。褒められたこと以外で」
「あぁ、はいはい。唯ちゃんって何かこう・・・ほんっと残念だよなぁ、そういうとこ」
「何言ってるんだ」
嵐は顔を歪める。唯には意味が分からない。彼の言いたいことがひとつも理解できない。それと同じ尺度で唯の言葉は嵐に全く刺さっていないようだった。ならばふたりで会話することに意味なんてない。意味なんてはじめからひとつもないし、きっとこれからだってない。
「紅夜ってさ、親がいねぇの」
「・・・知ってる」
だからあのホテルにいることだって、唯は分かっている。あのホテル、考えながらにやついた夏衣の顔が浮かんで、唯は胃袋の後ろが急に冷えたような気がした。寒気は毛穴から体内に入って、時々思い出したように唯の内部から溢れ出てくる。
「今はホテルの人たちと楽しくやってるみたいだけど、唯ちゃんだって分かるだろ、想像くらいできるだろ」
「なんの」
「あいつが今までどんだけ苦労してきたか、唯ちゃんだって分かるだろ、だからもうちょっと」
「・・・」
「優しくしてやれよ、何でもいいから」
どうしてこの子どもは自分にこんなに期待をしているのだろうと思う。それを捧げる人間を間違っている。自分はそんなに立派な人間ではない。頭でっかちで役になんかひとつも立たなくて、それなのにプライドばっかり一丁前に高くて。分かっているのにそれを半分以上良しとしているところも、直す気がないところも、歳ばっかり取るくせに、大人になんか一生かかってもなれないと決めつけているところも。挙げればきりがないと思って、唯はそこで考えることを止めた。派手な外見で悪目立ちするくせに寝てばっかりの子どもも、目つきばかり悪くなっていくくせに純粋なところは頑固に残っているこの子どもも、特異な環境で屈折して育ったくせにそれを微塵も見せないような仮面を覚えている優等生も、本当は皆鬱陶しかったし嫌いだった。唯は煙草をもう一本取り出して口にくわえてから、肝心のライターがないことを思い出した。ここは平和で患者の様態が急変して、昼食中に呼び出されることもない。だから色んな余計なことを考えてしまう。
「唯ちゃん」
放課後、唯が健康保険センターの扉に鍵を閉めている時だった。後ろからふと声をかけられて振り返ると、紅夜がバツの悪そうな顔をして立っていた。隣に嵐はいない。珍しくひとりだ、唯はふと思った。紅夜は大体あの小煩い男と一緒にいるか、目が開いているのかいないのか分からない京義と一緒にいることが多い。単独で見ると紅夜のその全ては他の男子生徒となんら変わらない。こうやってその他大勢に上手く紛れる方法も、きっと彼が生きていく中で見出したことなのだろうと邪推する。
「なんだ」
「昼間の・・・ごめん、ライター、返すわ」
紅夜の差し出した手のひらの上に、コンビニで買った緑色のライターが乗っている。それしか持っていない唯は、今日一日煙草を吸うことが出来なかった。ぼんやりとそれを見やっていると、紅夜が近づいてきて目の前にもう一度差し出す。変哲もないライターだった。唯はそれを手を伸ばして受け取った。紅夜の手がゆっくり下がる。視線をやると紅夜は俯いていた。
「窃盗は立派な犯罪だ」
「・・・なんやそれ」
俯いたまま紅夜が笑った。唯は少しだけほっとして、その俯いた茶色い頭をぽんぽんと宥めるように撫でた。紅夜が吃驚したように顔を上げて、慌てて手を引っ込める。嵐は何も言っていないのだろうかと、その見開かれた目を前にして思うが遅かった。
「・・・なに・・・」
「あー・・・別に。お前の友達のあれが、もう少し優しくしてやれって言うから」
「・・・なんやそれ、嵐か」
「お前に親がいないから、同情しているようだった」
「同情て、ちゃうやろ」
言いながら紅夜がまた笑って、同情ではないのか、共感ではないのに、と唯は思った。嵐には両親ともが健在しており、それ相応に大事にされているようだったし、それを嵐もよく分かっているようだった。少なくとも嵐が何でもないことのように話している話の端々に、そういうものが見え隠れしているのは知っていた。また理解できないことがふたりの間では罷り通っている。
「嵐の言うとおりにしてくれたん?優しく?」
「・・・何だその勝ち誇った顔は、やめろ、胸糞悪い」
「なんや、唯ちゃんかわいいとこあるやん。見直したわ」
「はぁ?もうしない、帰る」
紅夜に背を向けても、まだ背後で紅夜がにやにやしているのが分かった。放って置けばいいのだが、何となく気に入らなくて振り返る。案の定、紅夜はそこで口元を綻ばせて立っている。嵐や京義のようにルーズに制服を着崩すわけでもなく、紅夜はそこで制服をまるでお手本みたいにきちんと着ていた。靴下やブレザーを羽織れば全く見えなくなるセーターまで学校指定のものを着ている。きっとこれは夏衣が買っているのだろうと、またぼんやり夏衣のことを思い出してしまって、唯は苦い思いがした。
「なんだよ」
「そう怒らんといて、ほんまは知ってんねん」
「なにを」
「唯ちゃんがホンマは優しい人なんやって、俺も嵐も、皆知ってる」
そうやって紅夜が笑うことを、やっぱり気に入らないと思った。何も知らないくせにということは容易いが、流石に余りにも子どもっぽいので止めたが、胃の中のもやもやをおさめることが出来なくて、唯は小さく舌打ちをした。紅夜はそれに気付かない。
「せやから皆唯ちゃん唯ちゃんって、唯ちゃんのとこに集まるんやろうなぁ」
「いい迷惑だ」
「はは、言うと思った」
笑ったまま紅夜が手を振る。それが合図だと思った。
「また明日」
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