201 / 302

青い目のオペラ Ⅰ

すっかり忘れていた頃に、滝沢からメールが届いた。 「いちかっ!いちか!」 一禾は余り自室にいない。あんなに一禾の匂いがするのに、自室にいるのは寝ている時くらいである。一禾が学校の課題をいつどんな風にやっているのか分からないが、そういうことをしているのも見たことがない。自室に余りいない一禾の部屋はまるで一禾の部屋ではないみたいで、勝手に入っても余り一禾は染のことを怒らない。ただ困ったような顔をして、染ちゃん俺のいない時に入るのは良くないよ、と言うだけだ。一禾の部屋は一禾がいない割には一禾の匂いで満ちていて、おそらくは一禾のつけている香水の匂いなのだが、染はそれが一番安心する匂いなので好きだった。それを本人に伝えるのは、流石の染も気恥しい思いがして言っていないが、おそらくばれている。その時染が一禾の名前を呼びながら、ノックもしないで一禾の部屋に飛び込んだ時、一禾はベッドに座って自分の洗濯物を畳んでいた。一禾の服はどこかのブランドの物が多かったが、一禾自身がそれを大事に扱っているところを、あまり見たことがない。誰かにもらったものだからだろうか。 「なに、染ちゃん、大声出して」 「滝沢さん、からメールが来た!ば、バイトの誘い・・・」 「あぁ、そうなの、行っておいで、頑張ってね」 勝手にベッドに乗り上げて、携帯の画面を見せようとする染のことをいなして、一禾は笑ってそう言った。染はそれに少しだけ言葉を詰まらせて、頷いてしまいそうになる。鏡利に会いに行った時に何枚か撮った写真が載った『オペラ』が発売されると、一禾はそれを何故か5冊買ってきて、またホテルの皆で回し読みをしてにやにやしていた。染の着ている仕立ての良いefのスプリングコートが気に入ったのか知らないが、それを次の日一禾が買ってきて、染ちゃん春になったらこれ着なよと渡してくれたものが、染のクローゼットの中に入っている。そろそろそれを着る季節が迫っているのは分かっているが、何となく染はそれをクローゼットから出せないでいた。携帯の画面を一禾が全く見る気がないので、仕方なく染は腕を下ろした。 「い、いちか。あのさ・・・」 「一緒にはいかないよ」 「え?」 「一緒には行けない、俺、これから夕飯の買い出しに行かなきゃいけないし」 期待に満ちた染の目が、じわっと濡れたのが分かったけれど、一禾はそれに優しい言葉を囁いてやることは出来ない。俯く染の頭をぽんぽんと撫でると、ぽたりと染の目から涙が零れて手の上に落ちてきたので、少しだけうんざりした。こんな風に泣かなくても大丈夫だということを、きっと染は分かっているはずなのにこうやって毎回分かりやすい方法で気を引こうとするなんてあんまりだと思う。彼に悪気も他意もない分そう思ってしまう。一禾は染の頭をぐしゃぐしゃと掻き回すように撫でた後、少し迷ったがその肩をそっと抱いた。染の体がびくりと腕の中で跳ねる。あんまりこういうことはしたくないけれど、染に一番効果があるのはやっぱり過剰な身体接触だった。ちらりと染の横顔を見ると俯いてすんと鼻を鳴らしたところだった。 「だいじょうぶ、だいじょうぶ」 「・・・」 「ひとりで頑張れるね、染ちゃん」 「・・・うん」 腕を離すと染は俯いたまま、へへっと何故か嬉しそうに笑った。一禾にはその意味が分からない。染はおおよそ他人が理解できないことを恐れ、その先に良くない想像を働かせた挙句、有り得ないことに涙していることが多いけれど、他の感情は共感できることが多かった。それに目を瞑ってしまえば、染は普通の大学生の域を決して脱出しない。赤くなった頬を手の甲で擦ってじわっとまた赤が広がる。 「なに笑ってるの」 「うん、なんか、昔のこと思い出した」 「昔のこと?」 染がゆっくり顔を上げる。目元はまだ濡れているようだったが、その表情はやはりどちらかと言えば嬉しそうに笑んでいる。 「昔、一禾こうやってよく、俺のこと慰めてくれたよね」 「・・・そうだっけ」 「そう。大きくなって、あんまりしてくれなくなったけど」 「・・・―――」 言いながら染が笑う。それを見ながら一禾は必死で昔のことを思い出そうとしたけれど、あまり上手くはいかなかった。良いことより悪いことの方が多かった。笑っているよりも泣いているか怒っているかのほうが多かった。昔のことなんて何にも思い出す価値のないものだと思っていたから、記憶の底に沈めたままになっている。けれどそれを染はあっさり引き上げて、あの頃は良かったなんて安易に口に出したりして、やはり彼は自分とは違う種類の人間なのだろうと一禾は静かに思う。 「染ちゃん結局ひとりで出かけるの?」 「・・・あー・・・うん」 談話室で夏衣に呼び止められて、染はバツが悪そうに返事をした。本当は一禾についてきてもらうつもりだったけれど、一禾はそれが分かっていたのか先回りしてそれはできないときっぱり断られた。一禾は優しいけれど厳しくて、染は毎回それに打ちのめされている。 「ふーん、まぁ一禾ならそう言うと思った」 「なぁ、ナツ、これ変じゃない?一禾が帽子貸してくれたんだけど、あとサングラス」 「全部つけると変質者みたいだね、サングラスだけにしとけば。目合うの怖いんでしょ」 「・・・うーん、やっぱそうかぁ」 言いながら染が取った帽子を、夏衣が受け取る。一禾のサングラスは顔の小さい染に良く似合っていたが、染はそんな外見的なことはどうでもいいみたいで、とにかく変な風に外で浮かないことと、後は自己防衛の意味でしかない。しかし染がそんな風にサングラスをして顔を隠していると、ますます芸能人みたいだなと思って夏衣は小さく笑った。あんまり過剰に防衛するといけないと思いながら、残したサングラスだけでは不安そうで、染はいつもより落ち着かない様子だった。忙しなくサングラスを触って何度も鏡を見ている。 「染ちゃん、一禾に断られた割には元気そうだね、泣いてないし」 「えっ・・・あー・・・うん」 びくりと染の背中が跳ねて、そのまま曖昧な言葉が口から洩れる。 (あ、これ、もう泣いた後だな・・・) 察しの良い夏衣はその背中の動揺から、何となく染と一禾のやり取りが推測できた。あの以上に距離の近い幼馴染が、顔を必要以上に引っ付け合って、一体何を話しているのか気になるが、きっとろくでもないことでしかない。染の機嫌が良いということは、一禾の機嫌は悪いということで、これは彼が出て行った後、八つ当たりされそうだなと思い、夏衣は背筋が寒くなった。 「ナツ、俺、もう行く」 「うん、下まで送ろうか?」 「えっ・・・あー・・・大丈夫、頑張る」 「いってらっしゃい」 染が震えながら手を握って言うのに、夏衣はにこやかに手を振って応えた。

ともだちにシェアしよう!