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青い目のオペラ Ⅲ
「はぁ?」
狭い部屋の中でその声はひどく澄んで聞こえた。
「なんで、何で俺が表紙じゃないんだよ?え?そういう話だっただろ、はじめは。だから受けたんじゃねぇのか、この仕事!」
「落ち着け、ゆず」
「うるせ!桐山、お前、黙ってたな。分かって黙って、俺のこと騙しやがって。クソ!」
その涼しい顔をしている桐山のスーツのネクタイを引っ張ると、その腕を掴まれてぎりぎりと締め上げられた。ただ単純に痛くて、思わずそれから手を離す。非難の意味を込めて見上げると、桐山は涼しい表情のまま柚月のことを見下ろしていた。
「・・・てめ、ふざけやがって・・・」
「大人しく着替えろ。うるさい」
「タレントに暴力振るうマネージャーがいるかよ!傷害罪で訴えるぞ、てめえ!」
「うるさい、鼓膜が破れる」
耳を塞ぐポーズを決めて桐山が無表情で言う。柚月の怒りはおさまらないどころか、ますます増幅していく。桐山はラックにかけられたefの洋服を丁寧に取り、テーブルの上に並べた。柚月の年齢で着るには随分大人っぽいものが並んでいる。オペラの読者層は、柚月の年齢よりは少しばかり上だ。オファーがきたときにどうしようか迷ったが、丁度ドラマも映画もない時期だったので、仕事の勘を繋いでおくためにはいいかと思って受けたが、この仕立ての良い服を、小煩い柚月が着こなせるとも思えなくて、桐山はひとつ溜め息を吐いた。やっぱり断ったほうが良かったかもしれない、勿論柚月が気にしていることとは別で。
「なぁ、ゆず」
「うるせぇ、もう帰るぞ、桐山。車回せ」
「そうだな、分かってたことだが、お前にはちょっとまだ早い・・・」
「はぁ?ブツブツ言ってねぇで車回して来い!」
「・・・―――」
表紙ではないことが分かって機嫌が悪い柚月はこのまま帰るつもりのようだ、それを横目で見ながら桐山はふうと息を吐いた。世間にどう見られているのか分からないが、藤ヶ谷柚月は完璧に人工的な作り物だ。だから素顔を見せるような番組には出さないし、インタビューもさせないようにしている。共演者と喋る時でさえできるだけ気を付けるように教育もしているつもりだった。そうしてがんじがらめにしているのが、息が詰まるのも分かっているつもりなのだが、最近はどうでもいいことにぎゃんぎゃんと喚き散らして、年上の桐山にも平気で命令したりする。それを半分くらい容認しているのも、柚月のストレスのはけ口くらいにはなってやらねばならないと思っているからだったが、今日のは少しばかり過ぎる、と桐山は思った。
「ゆず」
「んだよ、うるせ・・・―――」
ちらりとこちらを見た柚月だったが、桐山には目もくれずに扉へと向かう。その進路を足で妨害すると、敵意をむき出しにしてこちらを見上げてくる。幼い子どもを、主演が出来るような俳優に育てたのは自分だ、そういう自負が桐山にはある。顔を近づけると柚月が分かりやすく怯んで後退する。背中が壁にぶつかって、抵抗は止まった。はじめは親の代わりのような気持ちで、愛情を向けられても鬱陶しくなかった。純粋にかわいいと思えた。けれどその方法も良くなかったし、その屈折の仕方も良くなかった。壁際でおろおろと困ったように視線を彷徨わせる柚月の顔に更に近づいて、お互いの吐息さえかかりそうな距離でじっと見つめる。テレビやスクリーンの中の女子高生に人気の人気若手俳優も、そうやって誰かのことを思ったり、健気に気を引いたりするわけで、何だかそれ以上考えてはいけないような気もするけれど一応かわいいとは思っている。
「・・・な、に・・・」
ふっと柚月が緊張して吐く息が鼻にかかってこそばいと思った。CMをしているキシリトール入りのガムの匂いがしている。
「ゆず、これは遊びじゃない、仕事だ」
「わ、分かってる・・・んなこと」
「じゃあできるな、知ってるんだ。柚月はなんでもできる子だからな」
「・・・柚月は、な」
ぎゅっと目を瞑って、柚月は耐えられないみたいに首を振った。こんなバカみたいなCMできるかとか、キスシーンは嫌だとか、何かと言って柚月は文句ばかりで煩かった。好意を利用しているのは分かっているが、こうするとおおむね言うことを聞くし、最終手段と思いながらそれに頼ることも多い。もしかしたら柚月もそうして欲しくて、最近はわがままを言うことが増えているのではないだろうかと、桐山は思う。自意識過剰と言われても仕方がない。そう見えるものは仕方がない。柚月が言うのに従ってすっと離れて、頭をぐしぐしとやや乱暴に撫でた。そういうスキンシップが嬉しい癖に、嬉しいとももっととも言えずに、柚月のできることと言ったら、それを睨みつけて払うことでしかないなんてあまりにも可哀想だった。
「やめろ、痛い!」
「悪い、やる気になってくれて嬉しいよ、しっかり頑張れ」
「クッソ、無表情で嘘吐くな、胸糞悪いんだよ」
なんで煌びやかな世界にいるくせに、共演者の他の女の子では駄目だったのだろうと思うことがないわけではなかったが、この業界はスキャンダルがご法度だ。柚月みたいな売れかけの若手俳優は特にイメージが大切だ。清廉潔白なイメージ、私生活が想像できないイメージ、漠然としたイメージ。そのほうが役に染まりやすくて、演技力だってまだまだ未熟な柚月には兎に角イメージが大切だった。だからそれをちんけなスキャンダルで上塗りされるくらいなら、身内相手に叶わぬ思いを育たせてくれている分には、見逃してやっておいたほうが良いのかもしれない。だから彼を野放しにしている。耳を赤く染めたまま、もたもたとefの複雑な作りの服を身に纏う柚月を見ながら、桐山はひとりでそう考えている。
「・・・なんつーか、『オペラ』って俺、あんまり好きじゃない」
壁につけられた鏡を見ながら、シャツの襟を引っ張って柚月が言う。
「そうか、ゆず、ちゃんと資料として渡した先月号読んでたんだな。偉いな」
「子ども扱いするな!」
「まだお前は子どもだ。『オペラ』もよくオファーしてくれたな」
「そういう意味じゃねーよ。そうじゃなくてなんか、お高くとまってやな感じだって言ってんだよ!」
「もう少し大人になったら分かる、お前にも」
不服そうな顔で柚月が振り返る。efの仕立ての良い服は、やっぱり柚月には似合わない。皺になったシャツを引っ張って伸ばして、中途半端な位置で絞められたベルトを引っ張って腰の位置でもう一度止める。柚月はそういう時だけ大人しく、されるがままマネキンのようになっている。後でスタイリストがきちんと直してくれると思ったが、取り敢えず外に出てもおかしくない程度にはしておきたかった。ジャケットを着るとそれらしくなるのだろうが、これからの薄着の季節にジャケットは必要ないらしい。柚月の緩いパーマの当たった茶色い髪をサイドからかき上げるようにすると、締まった輪郭が露わになって、少しは子どもっぽくなくなる。
「髪の毛、これ前の役の時のままだな」
「勝手にいじるなってお前が言うから・・・なに、いい加減離せよ、もういいだろ」
「サイド上げてもらうか、このほうがいい」
「やだよ、ダサいから」
頬を染めて柚月が呟く。
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