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青い目のオペラ Ⅴ
扉が開いてそこから顔を覗かせたのは、おそらく『オペラ』のスタッフだろう。メイクでもしに来たのかと思いながら、桐山はちらりと柚月の様子を見やる。すっかり不貞腐れたようになって、柚月は元の椅子に座っている。もう少し愛想良くしてくれと思いながら、桐山はスタッフの方に目をやる。スタッフは少し気を遣った様子で柚月に目をやり、それから扉の近くに立つ桐山に視線を移した。
「突然すみません、ちょっとご挨拶しておきたくて。染くん、入って」
スタッフ、滝沢が頭を下げて、それから扉の向こうに声をかける。びくりと柚月の肩が震えて、興味のなさそうだった目が、扉の方に向けられる頃にはらんらんと光り輝いていた。まさかこのタイミングで染の方からやって来るとは思っていなかった。桐山は少し驚きながら冷静を装って、扉を見つめていた。ややあって黒川染がそこから姿を現した。紙面に載っていたのと全く同じ顔をして、黒川染はそこに立っていた。少し緊張しているようで、結んだ唇が微弱に震えている。
「ウチのモデルの黒川染くんです、ホラ、染くんあいさつ、あいさつ!」
滝沢に背中を押されて、染は何歩か前に出ると背筋をしゃんと伸ばした。伸ばしたけれど自分を見つめる目に射抜かれて、言葉が出なくて焦った。滝沢が後ろから深呼吸と耳打ちをしてくる。奥に座っている藤ヶ谷柚月の姿がいやでも目に入って、それどころではない。
「く、黒川染です・・・宜しくお願い、します・・・」
小さい声でそれだけ言うと、染は二三歩足を後退させ、滝沢の後ろに隠れた。隠れたと言っても、背の低い滝沢の後ろに回り込んだところで背の高い染の姿は桐山のところからも、もちろん柚月のところからも見えていた。桐山はもう一度後ろを見やって柚月の様子を伺った。染のことを見ているその視線は、ぎりぎり睨んでいることは回避できているが、なんとなくじわっと敵意を感じさせるものだった。恐ろしいことを、思いながら桐山はひとつ溜め息を飲み込んだ。そして染の方に向き直る。
「わざわざありがとうございます。ノイエンコーポレーション所属の藤ヶ谷柚月です、私は担当マネージャーの桐山と申します。こちらこそ宜しくお願いします。黒川さん」
「あ、はい・・・」
何を警戒しているのか、それとも柚月の目線の正体に気付いているのか、黒川染は酷く怯えたような表情を浮かべている。何故彼が今そんな顔をしているのか、桐山にはよく分からなかった。立ち上がってこちらに来る気のない柚月の代わりに名刺を差し出すと、滝沢の後ろに隠れていた染は、おずおずと出てきてそれを受け取る。近くで見るとそれは圧巻と称していいものだと思った。染の容姿は、容姿に限って言えば、整いすぎているのが欠点とでも言っていいくらい、それは完成されたものであった。細工されたものではなく、目は近くで見ても透き通るようなブルーである。カラーコンタクトなのだろうか、桐山は思案しながら、染の綺麗に爪の切りそろえられた手が名刺を掴むのをゆっくり見ていた。
「すみません、柚月今日は朝から緊張してしまっているみたいで、何分こういう格式高い雑誌の仕事は初めてでして。モデルもあんまりやったことがないので、ぜひ黒川さん色々教えてやってください」
「あ、俺も・・・あ、いや僕もはじめたばっかりなのでそんな、なにも・・・」
そう言えば黒川染の経歴は聞いていなかった、桐山は思った。また経歴の浅い大学生が表紙をやるのに俺は巻頭グラビアだけなのかと柚月に言われたら面倒くさいと思いながら、桐山はそれ以上踏み込むのは止めにした。するとふと隣に立つ誰かの気配を感じて、桐山はすっと半身を下げた。
「おはようございます。はじめまして。藤ヶ谷柚月です」
「・・・あ・・・」
上出来、考えながらその後頭部を見やる。柚月は煩いし文句も沢山言うし我儘放大振る舞うが、その割にきちんと仕事はこなしそれなりの成果を上げて帰ってくる。不思議だが藤ヶ谷柚月である間は、全く横暴なところがなくて心配なところがひとつもない。これだけ裏表を使い分ければ流石にストレスもたまるだろう、可哀想に。そう思うから結局桐山も柚月を余り邪険には出来ないでいる、柚月をこんなふうな可哀想な子供に仕立てたのは間違いなく自分の裁量だったと思うからだ。同情と罪悪で一緒にいるのだと分かったら、また柚月は一段と吠えるだろう。柚月はそこで一度頭を下げた後、何故か酷く狼狽した様子の染を見上げて笑いかけた。この部屋に入ってからそう言えば一度も笑っていない、考えながら桐山はそれを見守る。
「あ、あの、は、じめまして・・・黒川、そ、めです・・・」
それにしても染の様子は大分可笑しい。桐山はちらりと柚月越しに染の様子を見やる。何故こんなにも動揺しているのか、意味が分からない。
「黒川さんって不思議な魅力のあるモデルさんだなって、今桐山さんと話していたところなんです」
人前で敬称をつけることができる柚月は、ふたりきりの時は必ず呼び捨てる。そして時々お前とかてめぇとか粗野な言葉で呼ばれることもある。
「・・・え、えっ」
「ほんとですか、染くん褒められてるよ、良かったね」
「あ、ありがとうございま、す」
相変わらず不自由な日本語を扱って、染は頭を下げる。スタッフである滝沢の方が幾分も落ち着いているし、幾分も余裕があるように見える。もっともこういう商売だ、芸能人など腐るほど目にしているだろうし、腐るほど会ってきているはずだ。今更興味はないのだろう。
「染くん、ホラ、頼めば」
「え、あ」
滝沢が染に耳打ちをして、染の挙動不審な視線が宙を泳ぐ。そう言えば名刺を受け取る時も片手であった。後ろに何か隠している。
「何ですか」
分かっている癖に無邪気を装って柚月が問う。
「あ、あの・・・俺、いや僕、藤ヶ谷さんのファ・・・ンで・・・その・・・これ」
差し出されたのは色紙だった。柚月が一度だけ確かめるみたいに桐山のことを見やる。それの頷いてやると柚月はその顔を笑顔に切り替えて染を見上げた。
「いいですよ、光栄だなぁ、ファンだなんて」
柚月は滝沢から受け取ったサインペンを使って、さらさらと丁寧にそこにサインをし、縦書きで『黒川染さんへ』と付け足した。はじめのころ柚月の字は見られたものではなかったが、ペン習字を習わせて大分とマシになってきた。それを染に手渡すと、染は真っ赤になってぶるぶる震えながら受け取った。この部屋に入ってきた時からどうも可笑しいとは思っていたが、ファンというのはお世辞でもなく、本当のことらしいということが桐山にもよく分かった。その震えや顔の赤さはただ単純に彼が緊張しているだけのようだ。そう思えば可笑しなことなどひとつもなかった。思い返しながら桐山は考える。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます・・・!」
その時、一瞬だけ柚月の目がすっと細められて酷く冷酷に光ったのを、桐山はただじっと見ていた。
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