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偽物レッセフェール
車の中は僅かな振動がしていて、それはなんだかいつも柚月を安心させてくれた。だから柚月は桐山が運転する車に乗っているのが好きだった。助手席よりも広い後部座席に座っていることが多くて、後ろからいつも桐山のことを見ている。車に乗っているとふたりきりであることが多かったのも、柚月の機嫌を良くしている原因の一部だった。efのスタジオを出て、今度は夏クールのドラマの顔合わせの為に都内を横断する。流れていく街の景色をぼんやり見ながら、最後に見た黒川染の緊張した頬の筋肉の形を思い出していた。ふふっと後部座席から笑う声が聞こえて、桐山がルームミラーでちらりと後ろを確認する。肘を突いた柚月はラフな私服姿で、後部座席に我が物顔で座っている。柚月が着ているのは柚月の私服ということになっているが、柚月の意思とは無関係に、桐山が相手に不快感を与えないシンプルで爽やかでかつ柚月の年齢にあったものとして用意しているものであった。とくにおしゃれに対して独自の考えがない柚月は、黙ってそれに腕を通している。他の大人の言うことは聞かないくせに、桐山の言うことだけはしっかり聞いたりして、だから桐山は柚月の担当を毎年降りることが出来ない。
「何笑ってるんだ」
「別に、最後の、おかしかったな」
「何が」
「人見知りで友達がいないってやつ」
言いながら柚月が唇の端を曲げる。子どもらしくない嫌なやり方だった。それに溜め息を吐きながら、桐山はハンドルを回した。
「事実だろう」
「ろくに学校にも行ってねぇしな。まぁそうだな、友だちなんていねぇな」
「初耳だな、学校なんて行きたいと思ってたのか」
「馬鹿、んなこと言ってねぇだろ」
運転席を柚月が後ろから蹴ったのか、背中に僅かな衝動が走る。それに眉を顰めても柚月には見えていない。柚月が最後に学校に行ったのはいつだっただろうと桐山はぼんやり思った。柚月は若年の頃から仕事をしていたから、高校といっても芸能活動を優先できる高校には籍を置いているが、本当に時々しかない仕事がない平日は、できるだけ学校に行くようにと言っている。実際のところ行っているのか桐山は知らないが、そんな日が三ヶ月に一度でもあればいい方で、何かと拘束時間が長かったり、撮影で地方に泊まり込みになったりすると、学校のことなど双方の頭の中からすぐに吹き飛んでしまう。
「怒んなかったな、お前」
「何が」
お前は止めろと思いながら、桐山はそれに返事をする。
「まりあの時は怒ったじゃん、俺が連絡先渡したら名刺びりびりに破いたじゃん」
「・・・あぁ」
「あれ、まりあちゃん泣きそうな顔してたぜ、こえー」
何だったかドラマで一緒になったアイドル崩れの女の子が、打ち上げの席で柚月に連絡先を渡してきて、それに柚月が特に他意なく自分のものも渡そうとしたら、それを何処で見張っていたのか分からないが、桐山が急にやって来て破いて捨てたことがあった。その後で柚月の手に渡った相手の女の子の連絡先も破いて捨てられた。別段それをどうしようと思っていたわけでもないので、柚月は何も言わなかったが、その時の桐山の権幕は今思い出しても恐ろしいものがあった。大声を出して怒鳴ったわけではないが、その時確かに桐山は怒り、らしくない余りにもあからさまな行動に出て、相手の女の子は泣きそうな顔で柚月に助けを求めていた。
「お前は黒川染とどうにかなるつもりなのか」
「はぁ?お前と一緒にすんな、ホモ野郎が」
「じゃあいいだろう、トモダチになる分には俺は止めない」
「・・・トモダチねぇ」
言いながら柚月はまた大人みたいな嫌な笑みを浮かべた。
「まりあの時は必死に止めたから、今度も止められるのかと思った」
「止めて欲しかったのか?もういい加減俺を試すようなことはしてくれるな。そんなことをしていてスキャンダルにでもなったらどうする」
「自意識過剰、気色わるっ」
言いながら大袈裟に笑って、柚月は体重を後部座席の背もたれに預けた。溜め息を吐きたい唇を結んで、桐山は耐えていた。柚月は車の移動が好きなようだったが、桐山はあまり好きではなかった。両手が塞がっているから煩い口を黙らせることも、耳を塞ぐこともままならなくて、ほとんど柚月の独壇場だからだ。だから桐山はいつでも耐えることしか選択肢がない。
「黒川染が連絡してきたら、ちゃんと俺に言え」
「なに、言ってどうすんの。つか、かけてこねぇよアイツ、たぶん」
「興味があるんだ、もう少しちゃんと話をしてみたい」
「・・・は、やっぱり」
若干諦めたように柚月が漏らし、そうではない、そういう意味の興味ではないと何度も言うのに、全くそれに頷く気配がないことに毎回必ずうんざりすることさえも、何だか桐山は面倒臭くなってきていた。もういっそそうだと開き直ってやるほうが良いのか、それものちのちボディーブローのように効いてきそうではあるが。考えていると何が最良なのか分からなくてドツボにはまりそうだった。
「ゆず、いい加減にしろ、何回言えば分かるんだ」
「はいはい、分かってるよ、俺をダシにしてあの美人モデルとどうにかなろうって魂胆なんだろ、見え見えなんだよ!クソ!」
また背中に衝撃が走って、柚月は死にたいのかと桐山はハンドルを握ったまま思った。先程まで笑っていたし、普通に会話できていると思ったら、急に怒り出したりして、いつものことだが情緒不安定も甚だしいと思った。ルームミラーでちらりと様子を伺うと、俯いたまま動かなくなっている頭の端っこが僅かに映っている。今度は泣き出すつもりなのか、心底面倒臭い、桐山は思う。
「ゆず、落ち着け。今日のお前、一段とおかしいぞ」
「うるせ、もう仕事したくない、帰りたい」
「今度のドラマは主役だ、お前が行かないとはじまらない」
「そんなのやりたくない」
俯いたまま柚月が肩を震わせて言う。桐山は溜め息を吐きそうになるのを何度も飲み込んで、また最良の選択肢を考えていた。
「ゆず、いい子だからそんなことを言って俺を困らせるのはやめてくれ」
「うるせぇな、子ども扱いすんなって言ってる!」
「そうだな、ゆずとどうこうなりたくてもまだ子どもだからな。俺だって捕まりたくないんだよ、そんなことで」
「・・・ウソツキ、死ねよ」
また肩を大きく柚月が震わせている。ようやくドラマの打ち合わせ会場のあるビルが見えて、桐山はほっとしていた。とりあえずこのふたりきりの重苦しい空気もここまでだ。やりたくないと柚月は毎度のように呟くが、部屋に押し込んでしまえばきちんと仕事はこなす。そういう姿を見ていると我儘放大言って暴れているだけのガキではあるが、この仕事は好きなのだろうと思う。
「ゆず、着いたぞ。準備しろよ」
「・・・お前、ほんと、3年後、覚えてろよ」
「あぁ、楽しみだな」
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