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ビードロの中で生きる Ⅰ
自分で死ぬ場所を決めるみたいに、生きる場所も決められたらいいのに。
「うるせぇ!黙れよ!お前は俺の奴隷なんだからよ!」
はっとして目が覚めた。目の前の机の上に制服のスラックスが見える。ゆっくり視線を上げると、誰かの机の上に座っているのは嵐だった。目を擦る。いつの間に眠ってしまったのだろう。最後の授業は数学だったことは覚えているが、いつどのタイミングで机に臥せるほど深い眠りに落ちてしまったのか、紅夜は覚えがなくて焦燥する。いつもと立場が逆だ、大体嵐は最後の授業まで起きていられなくて眠っていることが多い。そしてこの学校は、授業は義務ではなく権利だという方針の元、眠っている生徒を起こしたりはしない。それも権利であると半分くらいは認めているのだ。それでいて皆成績が良いのだから、結局は本人のやる気の問題なのである。バツが悪そうな紅夜の顔を見ながら、嵐は何故か得意げに微笑んだ。
「おはよう」
「・・・なんや、ずっとおったん、そこに」
「誰かさんが居眠りしてる間ずっといました」
「やめてや、起こしてや」
紅夜が口を曲げるのを見ながら笑ってひょいと机の上から降りた嵐は、ぺらっぺらの鞄を肩にかけた。時計を見上げると授業が終わってから10分ほど過ぎていた。京義はまだ教室にいるのだろうか、それとも音楽室に上がってしまったのだろうか。考えながらがらんとした教室を横切って、扉を開け放したまま外に出て行く嵐の背中を追いかける。もうすぐここに来てから一年経ち、進級する。進級すればこの教室ともサヨナラだ。紅夜は前をふらふらと歩く嵐の短い金髪を見やった。進級と同時にクラス替えもあるから、嵐とは別のクラスになるかもしれない。代わりに京義と同じクラスになるかもしれないけれど。考えていると嵐がふっと足を止めて、隣のクラスの窓を勝手に開けた。教室には女子生徒が何人かと、珍しく京義が覚醒したまま座ってぼんやりしているのが見えた。別に約束をしたわけではないが、何にも用事がない時は、3人で一緒に帰っている。嵐は学校の近くに住んでいるので、早々に別れることにはなるのだが、放課後どこに行ったか分からない京義を探すのを手伝ってくれている間に、何となく3人で帰るのが定着してしまっていた。
「すすきのー、かえろー」
窓枠に両肘を乗せて、嵐が呼ぶ。女子生徒が嵐の姿を見てぎょっとしたように話を止めた。京義はぼんやりと運動部が活動しているグラウンドを見ていたが、嵐に呼ばれてゆっくりこちらに視線を向けた。覚醒はしているが半分くらい目は閉じている。眠そうだなと思いながら、紅夜は嵐の後ろでひっそりと笑った。何だかこうやって大人しく京義が迎えを待っているなんて、微笑ましいと思ったからだ。
「京義、ごめん、待たせて」
「・・・別に、待ってない」
立ち上がりながら、京義が口の中でぼそぼそ言う。女子生徒は黙ったまま京義の動きを目で追いかけて、教室から立ち去るのを待っているようだった。そのあからさまな視線に京義は気付かず、もしくは気付いていて余り気にしていないのか、緩慢な動作で自分の鞄を肩にかけると、ふらふらと扉付近までやって来る。あまり目が開いていないので視界が狭いのか、足が何度も机にぶつかっていた。京義がやってくると示し合わせたように誰からともなくそこからゆっくり離れる。
「京義、今日は練習ええの」
「・・・今日は眠いから、帰る」
「今日はって、いつも眠いじゃん」
言いながら嵐がはははと笑い声を上げる。京義は相変わらずの無表情だった。聞いているのかどうかも疑わしい。京義は放課後、空いている音楽室でピアノを弾いていることが多い。それを知っているのは多分隣で練習をしている吹奏楽部と、紅夜と嵐くらいなものだ。嵐以上に異質な外見をしている京義は学校では悪目立ちをし、皆からよく分からない理由で避けられている。京義自身がそれを余り深くは考えていないようで、紅夜だけがそういう場面に立ち会うといつもハラハラさせられている。
「学年末テストまでもう少しだなー」
伸びをしながら嵐が言う。嵐は見た目の割にはきちんと勉強をしている。ただ本人は勉強嫌いで、本当はしたくないと苦い顔をして言っているのだが。ならどうして頑張ることができるのだろうと、紅夜はその横顔を見るたびに思う。京義はやりたいことがあるからそのために勉強しておくことが必要だからと、一番まともで大人な考えの元、眠ってばかりの割にはきちんと押さえるところは押さえているらしい。紅夜にはそういう信念がなく、ただ落ち着くからという理由で勉強している。将来のことも余り考えたことがない、大学にもこの間まで行くつもりがなかったから、特に明確なビジョンがない。
「そしたら1年も終わりやな」
「だなー、クラス替えか。俺また紅夜と一緒が良いな」
「嵐は友達少ないからな」
言いながら笑うと、嵐が心外そうな顔で此方を見ているのと目が合った。
「そんなことねーよ」
「今度は京義も一緒やったらええなぁ」
「・・・別にどっちでもいい」
「薄野は友達いねぇもんな」
「こら」
眠そうに京義は欠伸をして、嵐の軽口も聞いているのかいないのか分からない。運動部が走り回っているグラウンドの隣を通って、開きっ放しの門を潜ると、すぐ目の前が車道になっていて、いつも車が列をなしている。それを見るたびに紅夜は、ここは都会だなぁとしみじみ思う。複雑な育ちの都合でひとより沢山学校を変わる羽目になったが、そのどの学校よりもここは都会だ。目の前の交差点を車が行きかっている。それをぼんやりと眺めながら信号が変わるのを待っていると、紅夜はふと向こう側の信号待ちの群衆の中に見知った人間を見たような気がした。体がびくっと硬直し、反動で持っていた鞄が嵐の足に当たった。
「って・・・紅夜?」
「・・・―――」
「え、オイ、どしたの、紅夜?」
真っ青な顔をしている紅夜の顔を覗き込んで嵐が呼ぶと、紅夜は今気付いたみたいにはっとして鞄を抱え込んだ。その時、タイミング良く信号が変わって人が動き出す。いつもは緩慢な動作の京義が、珍しく一番早く反応して横断歩道を渡って行く。
「オイ、薄野、ちょっと待て・・・―――」
「あ、嵐、はよ、行こう」
呼び止めようとする嵐の腕を取って、紅夜は京義の後を追いかけた。京義の髪が目立つ色をしているので、人に紛れても遠くからでもよく分かる。群衆は横断歩道の真ん中で交じり合って、それぞれ行きたい方向へと散っていく。紅夜は嵐を盾にするみたいにして移動しながら、注意深くその波を観察した。仕事終わりのOL、保育園に息子を迎えに行った若い母親、定時で上がったサラリーマン、違う学校の女子生徒たち、気だるげな大学生、楽しそうなカップル。皆知っているようで知らない顔だ。
(落ち着け、ここにはおらん、はずや)
目を閉じると呼ぶ声が蘇って来るようで、紅夜は必死でその時嵐の腕を掴んでいた。
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