210 / 302
ビードロの中で生きる Ⅱ
変な顔をする嵐のことをなだめすかして、息を詰めるようにして歩いた。呼吸する音でさえ、彼に気付かれてしまうのではないかと思うと背筋が震えた。そしてそれを隠そうとするみたいに、紅夜はどんどん早足になった。何処まで行っても安心できなかったけれど、ホテルのポーチを潜ったところで、紅夜はやっとほっとして大きく息を吐いた。ここにやってきて平穏無事な毎日を送りすぎてしまったのか。忘れかかっていた記憶が、波のように押し寄せて、頭の中を支配している。暑くはないのにかいた汗で、背中がじっとりと濡れているような気がした。ふと視線を感じて顔を上げると、京義が珍しく覚醒した視線でこちらを見ているのと目が合った。びくりと体が無意味に緊張して震える。静かに凪いでいる赤い目は、紅夜に何かを訴えかけてきている割に無口であった。紅夜は慌ててそれに表情を柔らかくする。京義の目に今の自分がどう映っているのか分からないが、京義ならば余計な詮索をしないだろうと半分以上思っていた。何故か。
「な、に?」
「顔色、悪いぞ、相原」
「・・・あー・・・うん、ちょっと・・・」
京義の的確すぎるそれに紅夜が上手い言い訳を思いつかないままに返事をしようとした時、京義はこちらに背を向けてさっさと談話室へと入ってしまった。紅夜はその後ろ姿を見て、ほっとしながら少しだけ拍子抜けした気分だった。一体それに何と答えるつもりだったのか、自分でもよく分からないままに口を開いていた。浮いて出てきた額の汗を拭う。談話室の中にはきっと一禾がいるだろう、ホテルで一番優しい一禾は、やや過干渉なところがあり、今一番会いたくはないひとだった。帰ってきたら大体談話室に寄るのが通例となりつつあったが、紅夜はその日ばかりは自分の部屋に直行した。
(・・・びっくりした)
ベッドの上にぽんと鞄を放って、ごろりと横になる。目を閉じるとまだ心臓がどくどく煩い気がして、紅夜は眉間に皺を寄せた。いつまでもこんなことが続くわけがないと分かっているのに、今日学校を出る前に、進級したらなんて考えていたことが恥ずかしくなる。確かにホテルは居心地が良くて、今までのこともこれからのことも忘れてしまいそうになるけれど、そもそも自分は浮草みたいな存在で、何処かに根を張って居座ることなんてできないのだと、考えながら紅夜は眉間のしわがどんどん深くなることが、自分では分からない。ふうと息を吐くと、紅夜はベッドから起き上がって、制服のジャケットを脱いでハンガーにかけ、ネクタイを緩めて取った。こんなひとつひとつのことが、紅夜にとっては奇跡みたいなことだったなんて、誰に言ってもきっと理解なんてして貰えないだろう。そう思うことも傲慢なのだろうか。
勝浦の家が紅夜にとって何人目の親戚だったのか、紅夜自身も実は良く覚えていない。中学に上がってすぐに預けられていた別の親戚から、勝浦の家に預けられたのは覚えている。どうして今まで住んでいたそこを移らなければならなかったのか、紅夜にはよく分からない。大人の事情はいつも子供の紅夜には伏せられていた。あからさまに自分を邪魔そうに見る勝浦の両親の隣に座っていたのが、紅夜と同じ年齢の尚樹 という少年だった。親戚はどこの誰でも同じみたいな顔で紅夜のことを面倒臭そうに眺める。そういうことを特に隠さないのは、紅夜相手に取り繕う体裁など何もないからである。紅夜は当然みたいに小さいころからそういう無遠慮な視線に晒されていたので、今更それを何とも思わなかった。当然みたいに紅夜は尚樹と同じ中学に行くことになったのだが、他にすることがなく勉強ばかりしていた紅夜の成績の方が、尚樹よりも良かったことが、両親にとっても、そしてプライドの高い尚樹自身にとっても疎ましかったのだろう。
「うるせぇ!奴隷が!口答えしてんじゃねぇよ!」
ある日、それは突然始まり、そして今までそうだったかのように当然のように行われた。放課後の教室の隅で、紅夜はぼんやりと何かに激昂する尚樹の姿を見上げていた。殴られた左の頬が痛い、触るとべとりと何かが指先に付着している感触がして、手を離して見ればそれが血であることが分かる。紅夜は自分の血が付いた指先と、尚樹の顔を交互に見やった。さっきそれが硬く拳を作って、自分の頬を殴ったのは分かったけれど、一体何故彼はこんなにも怒っているのだろうか。
「・・・尚樹くんどうしたん、何をそんなピリピリしてんの」
「うるせぇ、涼しい顔しやがって!お前なんてな!俺の奴隷なんだよ!」
「奴隷て・・・」
「どこにも行くところがないくせに!親戚たらいまわしにされて、何処に行っても邪魔者なんだよ!お前なんか!」
「・・・―――」
「さっさと死ねよ!ゴミ!」
そんなことは分かっていた。誰かが紅夜の胸ぐらを掴んで引き起こした。そしてそのまま頬に拳の感触、背中に壁が当たって背骨まで一気に激痛が走る。痛みは確かに本物なのに、どうしてなのか紅夜はこの時ばかりは自分が当事者ではないような不思議な気分がしていた。足元がふわふわとしていて、まるで幽霊にでもなった気分で教室の端っこから、殴られている自分のことを見ている。そういう目のことを、きっと尚樹も分かっていて、余計に腹が立つのだろうけれど、紅夜は如何して自分が傍観者みたいなふりしかできないのか分からないから、尚樹のイライラを余計煽ることしかできない。また拳が振り上げられて、紅夜の腹を打った。痛いけれどどこか痛みは遠く、まるで自分の事ではないみたいに感じる。視界はぼんやりと狭まり、尚樹の顔もよく分からないけれど。紅夜は床に臥せったまま、自分と同じ制服なのに自棄に綺麗な尚樹のそれを見ていた。
勝浦の家も、他の親戚の家と同様、紅夜にとって居心地のいい場所ではなかった。紅夜には居心地のいい場所なんて初めからないみたいに、またそれも予定調和と言われればそれまでのような気がした。帰ってくると姿を見るなり勝浦の母は眉を顰めて溜め息を吐いた。
「た、ただいま・・・」
「紅夜くん、あなた学校で何やってるの、そんなに毎日制服汚してきて、洗うこっちの身にもなってくれる?」
「・・・ごめんなさい」
「はぁ、どうしてこんな子うちで預からなきゃいけないのかしら」
彼女がそうして呟くのを見ながら、貴方の息子に学校で殴られているから毎日制服が汚れるのですと言ってやろうかと思いながら、唇の端を舐める。彼女は制服の汚れに気付いても、頬の血には決して気付かないのだ。本当は彼女も自分の息子の狂気と暴力のことを本能的に知っているのかもしれない、だから頬の傷には永遠に気付けない。紅夜は早い段階から、大人のことは見限っていたので、別に誰にも助けを求めることはしなかった。尚樹が自分のことを殴ることは、勿論痛いし止めてくれればいいと思うけれど、それだけだった。彼が激昂した熱い頭で言うそれは、紅夜がずっと暗い目で呟かれていたそれと同じで、別段今更そんなものに晒されて、震えたりはしないけれど、まるで自分はそこから一歩も出られないと教えられているようで辛かったのかもしれない、本当は。考えながら紅夜は彼女の小言を聞き流すみたいに廊下を過る。すると前から尚樹が歩いてきて、紅夜は自然に足を止めた。何処に行ってもある程度厄介者扱いをされたけれど、尚樹は紅夜と同い年のせいか、その行動が顕著でそしてその狂気を全く隠すことがない分、性質が悪かった。紅夜が足を後退させようとするのに、尚樹はふっと笑ってその肩をぽんぽんと叩いた。殴られたところが制服の下でびりびりと痺れる。
「何その顔、喧嘩でもしたの。相原」
「・・・」
「いたそ、ご愁傷さま」
「・・・―――」
学校で激昂しまるで親の仇みたいな目で自分を見るくせに、自分の城の中では尚樹は賢くて優しい子である自分のことを、まるで演技でもするみたいな不自然さで取り繕っており、紅夜はそれに喉を掴まれたまま動けないでいる。すっと尚樹が自分の傍を離れる瞬間、ほっとして額に汗をじんわりかいていることに気付く。学校での暴行はまるで誰かの事みたいなのに、こんなことは自分のこととしての実感があるなんて不思議だった。紅夜は去っていく尚樹の背中を見ながら、その頃毎日のように考えていた。自分の心の中の育っていない部分にきちんと広がる闇があるみたいに、勝浦の家で大事に育てられた尚樹にも、当然みたいに闇があるのが不思議だった。そういう家の子どもが、自分と同じ種類の闇を育てたり飼っていたりすることが、紅夜には信じられなかった。だって紅夜は信じるみたいに思っていたのだ、こんな風に生まれなければ、なんて。
ともだちにシェアしよう!