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ビードロの中で生きる Ⅲ
大人に期待したことは一度もなかったけれど、それでも教師でさえも自分の味方をしてくれないと気付いた時、紅夜は軽く絶望していた。そしてまた大人には期待しないでおこうと、部屋の隅を見ながら思った。尚樹の暴力は誰にも咎められないがゆえに日増しに酷くなるばかりで、紅夜は毎日のように顔を腫らしていた。しかし勝浦の母親が紅夜の頬の傷に触れないみたいに、教師は誰も紅夜の顔のことを心配することもなければ、原因を探ることもしなかった。それは勝浦の家が白鳥の系列であることが原因の一端であったのだが、紅夜はその時そんなことは知る由もなく、もしかしたら尚樹の暴力の前に当事者になり切れていないのは、自分だけではないのかもしれないと、青黒く染まる目の上を見ながら思った。放課後になると、教室の隅で尚樹とその友達なのか取り巻き連中のサンドバックになっていることにも少し慣れてきた頃だった。紅夜が尚樹が帰った後、学校の水飲み場で顔を洗っている時に、不意に後ろからすっとハンカチを差し出された。
「・・・相原」
振り返るとクラスメイトの沢木が、紅夜にハンカチを差し出していた。沢木は明るくて活発な生徒であり、紅夜とは余り接点がなかった。そもそも尚樹が言いふらす、ほとんど真実のそれにあてられたクラスメイト達は、紅夜に対して自分が被害に遭わないための防衛も含んでいたと思うが、教師同様見て見ぬふりをするのが定例であったので、尚樹の暴行の現場に遭遇したとしても、皆揃って口を閉ざして何も見なかったふりをして、早足に遠ざかっていた。紅夜はその背中に対して期待はしていなかったので、おかげで絶望することはなかった。だからその時、振り返って沢木が立っていた時、紅夜は目の前の現実がちかちかと瞬いて見えた。それくらい紅夜にとっては怒りえない現象だった。紅夜は沢木と差し出されたハンカチを交互に見やった後、おずおずとそれを受け取って、何気なく広げた。真っ白のハンカチだった、何処も汚れていない。それで顔を拭けということなのだろうが、拭けばきっと汚い血がつくだろう、紅夜は躊躇して、沢木にそれを返そうとした。
「・・・ありがとう、でも、汚れるから、返すわ」
「いいよ、別に。汚れても」
「いや・・・やってこんな白い・・・」
「顔、拭けよ、相原」
紅夜の手の中にあるハンカチを、何故か沢木は決して受取ろうとはしなかった。紅夜ははじめてその時、じんわりと体のどこもかしこもが痛いことに気が付いていた。水に濡れてびりびりと顔の表面が引き攣るように痛かった。何度も殴られた腹の肉の下の内臓もじくじくと痛かった。余りの痛さに、今更涙が出るかと思った。沢木は黙ったまま、俯くように視線を下げており、紅夜は如何頑張っても視線を合わせることが出来なかった。紅夜は手に残ったハンカチを握りしめて、どうしようもなくてそこで途方に暮れていた。すると沢木がぱっと顔を上げて、紅夜の手の中からハンカチをすっと取った。そしてそれを広げると、紅夜の頬にぐいぐい押しつけてきた。吃驚して紅夜は足を後退させる。ハンカチには赤い血がじわっと滲んでいた。
「・・・沢木、くん」
「自分でやった方が痛くないと思うけど」
「・・・ごめん、ありがとう・・・」
紅夜はぼんやりとしながらそれを受け取り、そっと顔の水滴を拭った。何処もかしこも焼けるように痛いのに、どうして今まで平気だったのだろうと思った。霧が晴れたみたいに痛覚が機能しはじめて、けれどそれが自分にとっていいことだったのか悪いことだったのか、紅夜にはよく分からない。沢木はじっと顔を拭く紅夜のことを見つめており、その視線が煩い程だった。顔の水滴を拭った後、紅夜はおずおずと顔を上げた。沢木は相変わらずその視線を歪めずに、じっとこちらを見ている。
「沢木くん・・・ごめん、これ、洗って返すわ・・・」
「いいよ、別に。洗うって、勝浦の母親が洗うんだろ?」
「・・・いや・・・俺・・・手洗いするて、シャツとかもう・・・今は自分で洗ってんねんもん」
「ふーん、お前、ちゃんと飯食ってんの?細っせぇけど」
とんと胸を突かれて、ぐらっと体が揺れた。突かれた部分がじわじわと熱くて、じわじわと痛かった。顔を上げると沢木が少しだけバツの悪そうな顔をしていた。
「悪い、その下、怪我してんの」
「ええねん、ハンカチ、ありがとう」
「待てよ、相原」
力なく笑った紅夜が半身を返すのに、沢木がその手首を掴んだ。痩せて細い手首だと思った。勝浦の家に帰れば勝浦の母親は紅夜にも勿論ご飯を用意してくれていたが、紅夜はいつもそれを何故か食べる気がしなくて、しかし食べないとまた小言を言われるので少しは手を付けるようにしていた。そうしているうちにどんどん痩せてしまって、自分でもまずいと思っているけれど、食欲はどんどんなくなる一方で、紅夜はもうそれを自分で制御できなくなっていた。その一端を沢木に見透かされたような気がして、怖くなって紅夜は逃げようとした。尚樹の暴力も勝浦の家の居心地の悪さも、本当ならば自分は被害者のふりをしても良さそうなものなのに、何故か紅夜はいつも加害者みたいに誰かにそれを暴かれるのを怖がっている。
「・・・なに、沢木くん、俺にあんま構わんほうがええよ」
「何で、勝浦なんて別に怖くねーけど」
「や、別に尚樹くんがどうのって言うことやなくて・・・」
「こっち向けよ、相原」
呼ばれて仕方なく紅夜は振り返って沢木の方を向いた。沢木は何故かそこで眉間に皺を寄せて酷く厳しい顔をして紅夜のことを見ていた。紅夜はそれから逃れたくてまた足を後退させようとした。するとそれを目ざとく見つけた沢木が紅夜の手首を引く。
「なんで逃げんの」
「・・・や・・・別に・・・沢木くんが掴んでるから・・・」
「お前を心配することは、そんなに駄目なこと?」
「・・・心配・・・?」
「喜ばれても拒絶されると思わなかった」
「・・・―――」
目の奥がじりじり熱くて、紅夜は可笑しいなと思った。黙ったまま可笑しいなと思った。沢木の真剣な視線が当たって、体中が痛い。視線が痛いのか、物理的な痛みがそうさせるのか、紅夜には分からない。無意識にまた沢木と距離を取ろうとして、足が動く。
「でも・・・俺とおったら・・・沢木くん不幸になるから」
「なにそれ、勝浦がそう言ったのか?」
「うん・・・まぁ・・・」
「お前ってホント、勝浦の言いなりなんだな。殴られても全く抵抗しねぇし」
「はは、見てたん」
紅夜が腫れた顔を引き攣らせて笑うと、何故か沢木はそれに険しい顔をした。笑うところではなかったのかと思って、紅夜は慌てて口を閉じた。
「ごめん、次は助けるから」
「ええねん、俺は。尚樹くんも色々あるんやと思う。それにほら、尚樹くんが言ってることは殆どホンマの事って言うか・・・」
「・・・相原」
「ありがとう、ホンマに嬉しかった。でも俺には構わんで。俺は大丈夫やから」
「そんなにボコボコにされてそれでも勝浦を庇うって何なの、お前アイツのこと」
「え?」
不意に言葉を切った沢木を見上げて、紅夜は小さく呟いたが、沢木は眉間のしわを深くするばかりで、紅夜のそれには答えてくれなかった。
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