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ビードロの中で生きる Ⅳ

自分には構うなと確かに言ったはずだったが、時々紅夜の前に沢木はふらっと現われて、その真っ白のハンカチを差し出した。そして紅夜は毎回それを断り、沢木は受け取らないと言うやり取りを懲りずに繰り返していた。尚樹にはそのことが露見していないようで、ほっとしながら紅夜は自分が暴行されることよりも何よりも、いつか沢木のその優しい気持ちに尚樹が気付くのではないかと思って震えていた。尚樹のそれは放課後の教室でいつものように続いていたが、その時間帯は沢木は部活に出ていることが多く、そこに沢木が遭遇することが一度もなくて助かっている。水で濡らした真っ白いハンカチを、沢木がそっと傷口に当てて、痛いと紅夜は思った。尚樹に殴られている時は何とも思わないくせに、沢木に優しく手当をされている時は、いつも痛みに敏感で何故なのか自分でもよく分からない。紅夜が眉間に皺を寄せると、沢木は紅夜の手を握ったまま、まるでその痛みが繋がったところから移ったみたいに酷く辛そうにするのだった。 「・・・もうええわ、沢木くん」 「まだだ、服脱げよ」 「ええて。なんか、痛いねん」 「怪我してるからだろ、馬鹿なのか、相原」 「・・・そうやなくて」 呆れたように溜め息を吐いて、沢木が勝手にカッターシャツに手をかける。俯いたまま紅夜はそれ以上何と言えばいいのか分からなくなって、されるままにしていた。沢木に触られたところからびりびり痺れるみたいに痛くて痛くて、堪らなかった。尚樹のそれと圧倒的に違うはずなのに何故か。そして紅夜はその正体のことを上手く沢木に告げられないでいる。 「腫れてる」 「・・・あんま見んで」 「お前にも羞恥心とかあるんだな、相原」 「何やそれ、ひとのことサイボーグみたいに」 笑うと沢木が困ったような顔をしたので、紅夜はその続きを飲み込んで黙った。沢木と話をするようになって気付いたことだったが、教室の中でクラスメイトと喋っている時は明るくて活発な印象しかなかったが、こうしてふたりで向き合っている時の沢木は酷く冷たい表情をしていることが多い。その手のひらは優しいのに目だけは鋭くて紅夜はその意味が分からない。 「お前さ、勝浦の家から他のとこにうつれねぇの」 「・・・あー・・・どうなんやろ。中学卒業するまでは多分・・・無理やと思う」 「そっか。高校どこ行くの、相原頭良いからどこでも行けるよな」 「何やねん、人のこと馬鹿って言ったり頭良いって言ったり」 「次の家は、勝浦みたいなやつがいなきゃいいな」 「・・・うん」 俯いた紅夜の頭をぽんぽんと沢木が撫でる。俯いたまま涙が出そうになって、紅夜は鼻を啜った。冷たい目をした沢木が時々、そうやって不意打ちみたいに優しいことを言うのに、なかなか慣れることが出来なくて紅夜はいつも俯いてしまう。 「あれ、何やってんの、沢木」 その時不意に後ろから声がして、紅夜は慌てて振り返った。沢木も緩慢な動作で視線を上げる。教室の入り口に、珍しく一人で尚樹は立っていた。 「な、尚樹くん・・・」 「何やってんの、沢木」 尚樹は一度紅夜を見やった後、その奥に座っている沢木を見据えて同じように繰り返した。紅夜は喉の奥で息がひゅうひゅうと変な音を立てているのに気付いて、尚樹がどんどんこちらに近づいてくるのに、沢木の前に立ち塞がった。尚樹がその紅夜の目の前で足を止める。 「な、んでもないん、さっきそこで会って、ハンカチ貸してくれただけ」 「うるせぇ、お前には聞いてねェよ!何俺以外の奴と喋ってんだよ、クソが!立場わきまえろよな!」 「ご、ごめん、もうせへぇんから、怒らんで。帰ろう、尚樹くん」 「触んな!ゴミが!」 尚樹がいつものように紅夜を簡単に突き飛ばして、机や椅子にぶつかって床に倒れそうになったところを、丁度後ろにいた沢木が抱き留めるようにする。 「・・・あ、ごめん、沢木くん」 「いや・・・」 「だから喋ってんじゃねェっつってんだろ!沢木!お前もだよ!ソイツから手ぇ離せ!相原は俺のもんなんだよ!」 「ご、めん。は、はよ帰ろう、な。もう怒らんで・・・」 「なぁ、勝浦」 不意に黙っていた沢木が口を割って、紅夜は尚樹の制服の袖を掴んでいた手を離した。振り向くと沢木はいつものように冷たい表情を浮かべて、そこに立ってこちらを見ていた。もう余計なことは言わないで欲しいと、それを見ながら紅夜は祈るように思う。 「勝浦ってさ、相原のことが好きなのか」 「・・・は?」 「え?」 「そんな独占欲丸出しにして、殴ってんのもそれで?分かりにくい愛情表現だな」 唇の端を歪めて沢木が笑う。呆然とする紅夜の前をすっと影が過ぎって、まずいと思った瞬間に尚樹の手が降り上げられていた。沢木が全く動かず、そのままそれが頬に当たるのが見える。ワンテンポずれて紅夜の手が空を切る。左手を伸ばしてようやく、尚樹の肩を掴んだ。 「馬鹿にすんじゃねェよ!」 「・・・って、お前、本気で、殴りすぎだろ・・・」 「やめ・・・っ!尚樹くん、やめ、や!」 「うるせぇ!死ね!俺はお前の事なんか・・・!」 その時後ろを振り返った尚樹の顔が真っ赤で、紅夜はそれに吃驚して掴んでいた肩を思わず離していた。尚樹の拳が珍しく当たらずに宙を切った。よろけて俯いた頬はまだ随分と赤い。それが一体どういう意味なのか、紅夜にはよく分からなかった。 「尚樹くん・・・」 「何だよお前、その目!憐れむような目で見てんじゃねェ!死ね!」 「・・・ごめん・・・」 「そんなんじゃいつまでも伝わらねぇぞ、勝浦。馬鹿だな、お前」 沢木が口の端をまた歪めて笑う。

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