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ビードロの中で生きる Ⅴ

目が覚めた。 (・・・夢・・・?あれ・・・俺、いつの間に寝てたんやろ) ベッドから体を起こして、紅夜は髪の毛をくしゃくしゃと撫でた。制服を着替えている最中、そのままの格好でベッドの上に転がっていたらしい。ふと時計を見上げると30分ほど経っている。昔の夢を見たような気がしたけれど、一体それが何だったのか、目覚めてしまえばよく覚えていない。ベッドから降り立ち、中途半端だったカッターを脱いでクローゼットの扉を開ける。扉の裏側に付いた姿見に、何も着ていない上半身が写っていた。そこにあった痣も、傷も、今ではすっかり綺麗になっている。紅夜は腹を一度撫でた。交差点で良く知った顔を見かけたような気がするから、いつもは見ないような夢を見て、きっとセンチメンタルになっているに違いないことは分かったけれど、それをどう処理したらいいのか、紅夜にはよく分からなかった。だから珍しく混乱している。中からTシャツとパーカーを取り出し、それを見につける。そろそろ夕飯の時間だから談話室に降りないといけないと思って、制服のスラックスを脱ぐと、部屋の扉が叩かれた。 「あ、はーい」 「紅夜くん?ご飯出来たよ、降りておいで」 扉の向こうから一禾の声が聞こえる。紅夜はジーパンに履き替えると、扉を開けた。そこに綺麗なシャツの上からエプロンをつけている一禾が立っている。 「ごめん、一禾さん、わざわざありがと」 「ううん、どうせ京義を呼びに行くついでだから」 笑って一禾が首を振る。一禾はそのまま階段の前を素通りして、京義の部屋の扉を叩いている。紅夜はそれを少し離れたところから眺めていた。いつも見ていた光景に違いないのに、どうしてなのかその日、紅夜はそれを初めて見たような気がしていた。ホテルに来てもう少しで1年が経とうとしている。体も心もここの穏やかな生活に慣れてしまって、昔のことを上手く思い出せないでいる。ぎゅっと心臓が縮こまったような気配で、紅夜は背筋に嫌な汗をかいた。こんな平穏はきっと長くは続かないと知っている、長くは続かないと分かっていたほうが、今度手を離された時の予防線になることも知っている。 (・・・ちょっと最近、忘れてた、な) 遠くの扉が開いて、そこから眠そうな京義が出てくる。京義は制服のままだった。一禾は仕方なさそうに笑って、その肩をぽんぽんと叩いていた。 それから暫く、何事もなく日々は過ぎていて、紅夜は胸の奥にしこりみたいに残る記憶を呼び戻されながら、それでも目の前の学期末テストに集中しているふりをしていた。嵐は相変わらず勉強が嫌いで、そのくせ悪い点数を取る自分のことは許せないらしくて、テスト前はぴりぴりしている。京義は一応普通なのだが、テスト前は勉強しているらしく、音楽室に籠ることもあんまりなく、夜中にバイトに行く回数も減っている。その日もいつものように3人で下校している最中だった。例の交差点で赤が青になるのを待っている時、ふと紅夜は後ろからぽんぽんと肩を叩かれた。何気なく振り返る。 「・・・あ・・・」 「久しぶり、相原」 そこでにこっと笑ったのは、あの日、紅夜のことを理不尽な暴力で黙らせた尚樹だった。 「・・・な、おきくん・・・」 喉の奥が詰まったみたいに急に呼吸が苦しくなって、紅夜は2,3歩足を後退させた。隣で嵐が紅夜の反応に気付いたみたいに顔を尚樹の方に向ける。紺色のブレザーに灰色のスラックス、この辺りでは見たことがない制服だった。嵐はもう一度紅夜に視線を向け直す。そこで紅夜は目を見開いて、珍しく青白い顔をして微弱に震えていた。よろりとその体が傾くのに、思わず肩を掴む。 「オイ、紅夜、だいじょうぶ・・・―――」 「元気だった?お前が急に白鳥に引き抜かれて、さよならも言えなかったから気になってたんだよね」 「・・・―――」 「・・・なに、紅夜、知り合い?白鳥って・・・夏衣さん?」 「・・・―――」 嵐の呼びかけには答えず、紅夜は震える目で尚樹のことを見上げていた。このパターンは尚樹が自分の家の中で振舞っていた良い子の尚樹に似ている。良い子の尚樹は決して暴力をふるったりはしないから、紅夜にとっては脅威の対象ではなかったが、それゆえに何を考えているのか分からなくて恐ろしかった。尚樹は嵐や京義のことなど見えていないかのように、真っ直ぐ紅夜だけを見据えている。 「俺がどうしてこんなところにいるのか分からないって顔してるな、そうだよな、俺は本当なら京都の家にいるはずだもんな」 「・・・京都の・・・?」 「教えてやろうか、お前も気になってるだろう、相原がいなくなった後、俺たちがどんな風に壊れたのか」 「・・・こわれ、た・・・?」 その時尚樹の目の奥がキラッと光って、紅夜はまずいと思った。がっと手が伸びてきて、紅夜のネクタイを掴む。びくっと体が硬直して、そのあからさまに暴力的な動作に全く抵抗できない。良い子の尚樹の皮は剥がれて、そこで笑っているのは暗がりの教室でいつも見ていた尚樹だ。 「なおき、く・・・―――」 「お前のせいだよ、相原」 顔を寄せて尚樹が低く呟くのが、鼓膜に響く。 「お前が白鳥なんかに連れて行かれるから。俺たちはあの家にはいられなくなった!白鳥連中から睨まれて離散だよ、離散!」 「・・・りさ・・・ん・・・?」 小さく紅夜が呟くと、尚樹は一層眉間の皺を深くした。 「オイ、やめろ!何か良くわかんねぇけど紅夜から手ぇ離せ!」 「うるせぇ!全部お前のせいだよ!お前が俺ん家に来てからおかしくなった!全部!お前のせいだ!」 「・・・―――」 尚樹が手を離すと同時に紅夜の胸をどんと突き飛ばして、そのままよろけてアスファルトに尻餅をつく。見上げる視界の中で尚樹が眉間に皺を寄せてこちらを睨んでいる。もうその唇には笑みは浮かんでいない。側に嵐が膝をついてこちらを覗き込んでくる。それでもまだ、紅夜には尚樹の悲痛そうな顔しか見えていなかった。こんな時にどんな言葉が必要なのか、ふさわしいのか分からない。尚樹は俯いたまま肩を揺らした。あの時の擦り込みのままなのか、1年経ってもまだ自分は尚樹の前で酷く無力だと思った。その前で何の抵抗もしなかったのは、多分はじめは勝浦の家に厄介になっていることへの罪悪感からだったと思うが、その続きはよく分からない。ただその目に睨まれて、その口で名前を呼ばれると体が固まってしまって動かなくなるのだ。目を瞑ると簡単に薄暗い教室の隅っこが見えてくる。だから紅夜は尚樹の前で目を瞑ることが出来ない。 「それなのにお前は勝手にいなくなるし・・・」 俯いたまま悲痛そうに眉を寄せて、尚樹は小さく呟いた。

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