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ビードロの中で生きる Ⅵ

そういう尚樹の顔を、どこかで見たことがあると思った。 「お前といると不幸になる、皆。俺も結局このザマだ」 「・・・尚樹くん・・・」 「あの家に居られなくなって、こんなところまで逃げてきて、一目忍んでひっそり生きて行かなきゃいけなくなって!それも全部、お前のせい・・・―――」 何を思ったのか急に尚樹が言葉を切って、それ以降は飲み込むように静かになった。紅夜はゆっくりアスファルトの上に立ち上がって、それ以上言うのを止めた尚樹のことをただ見ていた。まさか尚樹がその後家を追われて、紅夜と同じ東京にいるなんて考えたこともなかった。紅夜はただ夏衣の代理人という人間が、夏衣が引き取ると言っていると告げられて、それにいつものように自分の意思を挟む余裕もなく、さっさと転校手続きを進められて、荷物を纏められて、たったひとりで東京に行くことに余儀なくされた。今までお世話になったお礼を言いたいと紅夜が言うのに、確かにその時代理人は何故か言葉を濁して、そういうことは自分がしておくから構わない、それより早く夏衣さんのところに行きなさいと静かに言われたのだった。その絶対に覆らない命令口調相手に、紅夜は何も言えずに頷くことしかできなかった。だから尚樹にも勝浦の家にも、学校にも、紅夜は何も言わずに新幹線に乗せられた。余りにも急だなと思ったけれど、こんなことはこれまでにもあったことの延長にすぎなかったので、そう思えば特に気にするほどの事ではなかった、ような気がする。 「・・・ごめん・・・」 「何謝ってんだよ!ほんとに、お前の、そういうところ!すげぇ苛々する!」 「・・・や、だって・・・ごめん・・・!」 「だから謝るなって言ってるだろ!そんなことで許されると思ってんのか!」 尚樹の振り上げた腕が、その時紅夜にはスローモーションに見えた。それが振り下ろされて自分の頬に当たるまで、後3秒。 (あれ・・・) 「な、にすんだよ!テメェ!」 「こっちのセリフだ!いい加減なこと紅夜に言いやがって!何なんだよお前は!」 「うるせぇ!部外者はすっこんでろ!」 「・・・嵐」 振り上げられた尚樹の腕を、その時掴んだのは嵐だった。ふっと呼びかけに応じるように嵐が振り返る。その眉は紅夜を咎めるように吊り上っていた。 「なんだよ、紅夜!何で言い返さねぇんだよ!」 「や・・・だって」 俯いたまま曖昧に笑うと、嵐が痺れを切らしたように尚樹の腕を振り払ったのが見えた。言い返すも何も、尚樹は別に間違ったことは言っていない、ような気がする。しかしそれを嵐はきっと理解できないだろうと思って、紅夜はそれを言うのを躊躇っていた。 「は、お前らもどうせ!不幸になるぞ、こいつに関わってたら!」 「うるせぇな、ほんとお前は・・・」 「自分の家だけじゃなくて俺ん家まで離散させやがって!感謝されても恨まれる覚えなんてねぇんだよ!クソ!」 「・・・り、離散ってホンマなん・・・今、どうしてるん、尚樹くん」 「うるせぇ!勝手に憐れんでんじゃねぇよ!お前は良いよな、白鳥に面倒見てもらえてんだろ!立場が逆転したってか、笑いたきゃ笑えよ!」 伸ばした手を払われて、紅夜はそれ以上何も言えずに俯いて黙ってしまった。はぁと大きく溜め息を吐いた尚樹が、苛立ったようにがしがしと頭を掻く。 「自分の都合をそうやって、相手に押し付けてたら楽だろうな」 沈黙にふと良く知った声が混ざって、紅夜は視線を上げた。困ったような顔をした嵐の隣で、さっきまでほとんど覚醒していなかった京義がぱちりと瞬きをして、その赤い虹彩を光らせてこちらを見ている。尚樹の視線がゆっくりと動いて京義のところで止まる。 「不幸になったのは相原の責任じゃない、大方お前自身のせいだろう」 「なん、だと?ろくに事情も知らねェで分かったような口聞きやがって・・・!」 「考えれば分かる。相原が他人に影響を及ぼせるほどの人間じゃないことくらい、見てれば分かる」 「・・・な、なんやそれ・・・貶してんの・・・?」 「だから俺は、相原といたって不幸になったりしない。分かったらいい加減黙って、早く帰れよ、胸糞悪い」 その時京義の声がはっきり聞こえて、街の雑踏の中で抜き出したみたいにはっきり聞こえて、紅夜は立ち竦んだままその勇ましい横顔を見ていた。尚樹が唇を震わせて、足を2,3歩後退させる。後ろから腕を掴まれて、はっとして振り返ると嵐だった。 「行こうぜ、紅夜」 「あ・・・うん」 引っ張られるようにその場から離れようとするその一瞬、紅夜は振り返って尚樹のほうを見やった。俯いてそこで肩を震わせている尚樹は、紅夜の知らない弱い生き物に成り下がっていた。尚樹が先ほどそう言ったように、立場が逆転したから、そんな風に見えるのだろうか、見えたのだろうか。 「待てよ、相原」 「うるせ!お前まだなんか用なのかよ!」 振り返って嵐が叫ぶ。そこでゆっくり尚樹は顔を上げた。口角が上がっている。 「沢木、お前が姿を消した後、すぐ死んだよ」 「・・・え?」 「電車に飛び込んだ、自殺だった!」 「・・・う、そや・・・」 声が震える。 「お前に何にも言われなかったのがショックだったんだろうなぁ!アイツヒーロー気取りでお前の事憐れんでたのに!それを優しさか何かだと勘違いして、お前も大概気色悪ィけどな!」 「・・・ほ、ほんま、に沢木くん・・・」 「死んだよ。お前のせいだろ。これでもお前と関わっても不幸にならないって言えるのかよ、沢木が死んだのも沢木自身のせいなのかよ」 「・・・そんな・・・―――」 「言えよ!お前が殺したんだ!お前の家族も!沢木も全部!」 「・・・―――」 目の前が真っ暗になって、尚樹がそう叫ぶような顔がぼんやりと歪んで、紅夜はそこにしゃがみこんで震えた。目を瞑ると暗がりの教室で白いハンカチを広げる沢木の姿が見えてくる。冷たい表情をして、時々不意打ちみたいに優しい言葉を恥ずかしげもなく唇から零す、沢木の姿が見えてくる。別れてから一度も、沢木のことを思い出すことがなかったことを、紅夜はそこではじめて気が付いていた。どうして思い出さなかったのだろう。ホテルでの温かな生活は、紅夜の後ろ暗い記憶をどこか遠くに押しやり、まるでそんなことなかったかのように振る舞わせるには十分だった。尚樹がまだ何か言っているような気がしたが、紅夜にはもうよく分からなかった。覚えておかなかったことが罪だったのか、思い出せなかったことが罪だったのか。だとしたらこの罰は対等だったのか、濁った視界と思考の中ではもうよく分からない。

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