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ビードロの中で生きる Ⅶ

静かな夜だった。 「ナツさん」 呼び止められて振り返ると、Tシャツに短パン姿で紅夜がそこに立っていた。おそらくもう寝るつもりなのだろう。髪の毛が中途半端に乾かされてしっとりしており、それが何だか酷く彼を幼く見せていた。夏衣は表情を柔らかくしながら、紅夜にゆっくり近づいた。 「どうしたの、紅夜くん」 「・・・ちょっと聞きたいことが、あるんですけど」 「いいよ、なに?」 珍しく紅夜が改まっている。何となく嫌な雰囲気を言葉尻から感じながら、夏衣はあくまでにこやかに続けた。紅夜は視線を床に落として、少しだけそれを彷徨わせて躊躇しているようにも、言葉を選んでいるようにも見えた。じれったい程長いように感じた沈黙も、おそらく2,3分のことだったに違いない。すっと紅夜が視線を上げて、夏衣を正面から捉える。相変わらず真っ直ぐな瞳をしている、若さゆえにそんな視線で物事を射抜くみたいな紅夜のことを、時々夏衣は鬱陶しく感じる。 「今日、尚樹くん・・・勝浦くんに会いました」 「・・・かつうら?」 「あの、俺がここに来る前に、お世話になっていた家で・・・」 「・・・へぇ」 説明をされても今一つピンとこなかった。紅夜は夏衣がそれを知っていると思っていたらしく、薄いリアクションに少し戸惑っているようだった。しかし夏衣は頭をフル回転させても、そんな名前は知らない。もっともどうでもいいと感じたことはすぐ忘れる都合の良い脳みそであったから、忘れてしまったのかもしれない。夏衣はとぼけたほうが良い事案なのかどうか、考えながら慎重に相槌を打った。 「それでどうしたの?」 「・・・なんか、変なこと言うてたんで、俺のせいで一家離散したとか・・・なんとか・・・」 「はぁ、そりゃまた、びっくりだね」 「ナツさんなら何か知ってると思ったんやけど・・・」 紅夜が困ったように続ける。知っているも何も忘れてしまったことについては何も言えない。夏衣は腕を組んでおぼろげな記憶を呼び戻した。紅夜が前預かられていた家も、勿論白鳥系列であったが、末端も末端になると系列といえども他の一般の家となんら変わらないことも多く、確か勝浦の家もそのような感じだった気がする。余りにも末端なので夏衣が出向くわけにはいかずに、代理に使用人を寄越した記憶はあるが、その後その家がどうなったかなど、余り詳しく覚えていない。 「・・・うーん・・・ごめん、良く覚えてないなぁ」 「いや、ナツさんが知らんならええんです。ごめんなさい、変なこと聞いて」 ふっと何事もなかったように目の前で紅夜が踵を返す。夏衣はふとそれを呼び止めていた。 「紅夜くん」 「・・・うん?」 「もしかしたら俺が離散に追い込んじゃったのかもしれない」 「・・・え?」 驚いた顔をして紅夜が足をぴたりと止める。それにできるだけにこやかに見えるように夏衣は微笑んで見せた。ひくりと紅夜の頬が引き攣るのが見えた。 「・・・それって、どういう・・・」 「紅夜くん俺の家のことちょっとは知ってるよね」 「は・・・はい・・・」 「紅夜くんを俺が急に預かるって言った時、ちょっと本家でもめてさ。紅夜くんは白鳥の系列でも末端の方の家系だけど、本当は本家に近い家系なんじゃないかとか云々、そういうことを皆話し合ってたの。まぁ全然、そんなことはなくて、俺が君が不憫で可哀想と思ったから引き取っただけなんだけど」 「・・・それで・・・」 「でもそんな噂が流れちゃったからさ、勝浦、だっけ、その家は紅夜くんのことをいびって楽しんでいたじゃない。その罰を受けたのかもね」 「・・・―――」 「だから回り回って俺のせいなのかも。なんか悪いことしちゃったなぁ、ごめんね」 胸の前で手をパンと打って、夏衣はにこにことしてそう言った。紅夜は血の気が引いて、何故夏衣がにこにことしているのか、いられるのか分からなかった。尚樹が言ったことの何が本当で何が嘘で何が誇張されていた現実だったのか不明だったけれど、あんな風に必死に眉を顰めて悲痛そうにしている尚樹のことを初めて見た。だからきっと事実以上に尚樹が言ったことは、尚樹にとっては本質に違いなかった。紅夜はまた目の前が暗くなる思いがして、ふっと意識を失うかと思った。 「・・・な、ナツさん・・・」 「でも、別にいいでしょう」 俯いたまま夏衣が呟く。口元はにこやかに緩められている。何が良くて何が悪いのか分からない。紅夜は混乱したまま夏衣の表情を見ていた。 「紅夜くん、あの家で君がされていたことは、君には何の落ち度もないただの理不尽な暴力だ」 先ほどはっきりと覚えていないと言ったくせに、夏衣はまるで見てきたかのように言う。その正確さに射抜かれて、紅夜はゾッとして、足を後退させて夏衣から距離を取りたいような気持ちになった。夏衣の目はまだ床を這っている。それだけで安全だと思いたかった。 「俺は許し難いと思ったよ。君みたいなかわいい子をいじめるなんて許せないなぁ、って思ったよ。だから少し意地悪をしたかもしれないなぁ・・・良く覚えてないけれど」 「・・・なんで、そんな・・・」 「罪には同程度の罰が必要なんだよ、紅夜くんも分かるでしょう。久しぶりに会った彼はどうだった?惨めだった?君がされていた酷いことを、それで許してやろうっていう気になった?」 「そん、俺、そんなこと頼んでな・・・―――」 「ざまあみろって思いなよ、紅夜くん。俺が何だか酷いことをしているみたいだから。こんなこと普通なのに」 「ナツさん!」 不意に紅夜が叫んで、夏衣はすっと視線を上げた。俯いて紅夜が肩を上下させている。その額には脂汗が浮いていて、表情は酷く辛そうに見えた。どうして紅夜がそういう顔をしなければならないのか、夏衣には分からない。分からなくてもどかしい。 「なに?」 「もう、やめて。分かった。ナツさんが俺の為に色々・・・してくれたことは嬉しい・・・と思う」 「うん、本当に許し難いことだよ」 「やからもう、やめて。これ以上は何も、せんで、な」 「・・・―――」 顔を上げた紅夜に夏衣はにっこりと微笑んで見せた。 (君は心が綺麗すぎて嫌だな、紅夜くん。あんなこと君がされていたことに比べたら何てことないだろう)

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