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うつくしいこども
講義が終わる時間が時々ずれることがあって、そんな時染は大抵キヨと一緒に居る。そうでなくても大概キヨと一緒に居るのだが、校内でひとりでいること自体、自殺行為だと勘違いしている染は、兎に角誰かの後ろに隠れるように過ごしていることが多い。しかしキヨもキヨでバイトだのなんだのと勿論色々忙しかったりするので、染の面倒を見られないこともある。そんな時、染は人目を凌ぐみたいに、図書館の一番奥の隅っこの机の一番端っこで眠っている。そうしていると誰も話しかけてこないんだと鬼の首を取ったみたいに染が目を輝かせて言うのを、一禾は何だかなぁと思いながら聞いている。
(・・・ちょっと遅くなっちゃった)
講義が終わって早足で教室を出る。図書館のある文学部の棟まで走るように向かうと、何人か擦れ違いざまに声をかけられて、鬱陶しいと思いながら、一禾はそれにいちいちにこやかに答えた。ようやく図書館まで辿り着いて、中に入る。私語厳禁の図書館の中は静かで、一禾はその静寂の中でほっと息を吐く。一番奥の一番端の席まで、ゆっくり歩いて近づく。机に臥せっている染の黒い頭が見える。眠っているのか眠っているふりをしているのか、考えながら一禾は染の目の前の椅子を引いた。
「染ちゃん」
声をかけるが染は微動にしない。これは眠っている、考えながら一禾はそこに腰を据えた。起こして連れて帰ったほうが良いのか、それともこのまま寝かせておいてもいいのか、少しだけ考える。考えながら無防備な染の頭を撫でた。黒い髪の毛が手のひらに絡んでくすぐったい。染に触れられると温かくてそれから少しだけ悲しくなる。昔はこんな風にして慰めてくれたと俯いて呟いた染のことを、一禾は少しだけ気楽でいいなと思った。どうして昔はあんな風にぎゅっと抱くことに躊躇しなかったのだろう、躊躇しないでいられたのだろう。染の頭を撫でながら考える。一番傍にいて一番大事にしているけれど、時々染の目が自分を見透かして誰かを見ているような気がして、一禾は怖くて堪らない。堪らないから時々少し悲しくて寂しい。
(いいなぁ、染ちゃんは。思っている方はこんなに毎日苦しくて、悲しいよ)
(俺のことどう思ってる?好き?何番目に好き?)
(俺はいつも、一番好きだよ)
自分の思考に追いやられて押しつぶされて苦しくなって目眩がする。
「・・・すきだよ」
たったそれだけ呟けないことが、何年間一禾を苦しめているのか、目を閉じて眠る染は知らない。知る由もない。すると染の目蓋が微かに動いてそれがゆっくりと開いていく。吃驚して一禾は座っていた椅子ごと後ろにひっくり返すかと思った。思わず手を離す。
「・・・いちか?」
「お、おはよう、染ちゃん・・・」
私語厳禁の図書館の中で、必死に声のボリュームを下げながら、一禾はにこっと笑って見せた。耳が熱くて堪らない。聞こえていたのだろうかと一瞬嫌な想像が過ぎって、一禾は背中に嫌な汗をかいた。鞄を持って立ち上がる。染も目を擦りながら立ち上がった。
「なぁ、いちか。お前さ・・・」
「なに、もう出るよ」
早足で図書館の中を歩いて行く一禾の背中を、眠そうな目をしたままの染も追いかける。染は一体一禾がどうしてそんなに急いでいるのか分からない。一禾もどうして自分の耳がこんなに熱いのか、鼓動の音がこんなに早いのか分からない。
「なぁ、いちか。俺が寝てる時なんか言った?」
図書館をようやく抜けたところで、染が欠伸を噛み殺しながら不意に言う。それに答えるみたいに振り返った時、自分は酷い顔をしていたのだろうなと一禾は後になって思う。それと目を合わせた染があからさまにぎょっとした顔をしたのを覚えているからだ。
「・・・な、にも言ってないけど、どうしたの」
「んー、じゃあ夢かな、なんか一禾が優しくしてくれる夢見た」
「・・・―――」
へらへらと笑って、染は後頭部をがしがし掻いた。こっちの気も知らないで気楽なものだと思う。一禾はそれに溜め息を吐いて、染に背を向けて歩き出した。
「なにそれ、いつも優しくしてるでしょ」
「はは、うん、まぁ。そうなんだけど」
「自覚があるならよろしい」
「なんか気持ちのいいこといっぱい言ってくれてにこにこしてたんだよなぁ、内容はもう忘れたけど、ふわふわして良い夢だった」
背中を向けた一禾は俯いて、下唇を噛んで胸に沸いた焦燥をやり過ごそうとした。無邪気な声で染が続きを話すのが嫌でも耳に届く。
「頭もいっぱい撫でてくれた」
(夢じゃなくてそれはほんとに撫でてたんだよ)
振り返ると、染が気付いたみたいに足を止める。何と言いながら首を傾げる染には、きっと悪気なんて一つもないのだろう、分かっている。染に悪気があったことなんて一度もない。一禾は染の方にずいっと近寄ると、正面からぎゅっと抱き締めた。染の体が震えて、一禾の腕を嫌がるように一度体を捻って止まる。ちらりと顔を見やると、首筋が自棄に赤い。いざって時には照れたりするのだなとそれを見ながら思う。ゆっくり手を離して染から距離を取ると、なぜか染は目にうっすらと涙を浮かべていた。
「何で泣いてるの染ちゃん」
「い、一禾がいきなりするからだろ、びっくりした」
「ごめん、だって、して欲しいのかと思って」
「こ、こんな往来で、皆見て、る」
「見てないよ、駐車場だし、人いないじゃん」
「なんで、怒ってんの。俺何も、言ってないよ」
語尾の強い口調に気付いたのか、染は慌てるみたいに反論の進路を変えた。それを見ながら一禾は小さく溜め息を吐いた。いつになったら伝わるのだろう、これが人間的な家族的な愛ではないのだと、いつになったらこの幼馴染は気付くのだろう。気付いた時には一禾に長い間酷いことをしたなとか、そんなことを思うのだろうか。考えながら一禾は染に背を向けて歩き出した。
「い、いちか」
「怒ってないよ、別に」
「嘘だ、だってなんか、怖いもん」
「怖くないよ、ふつう」
また何かと騒がしくする染の反論を聞き流しながら、一禾は車の扉を開けて運転席に乗り込んだ。
(悪気がないことが本当は一番、一番性質が悪い)
下唇を噛んだら今度は血の味がした。
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