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ブランケットタイム Ⅰ
ホテルの談話室にはソファーがある。茶色の革張りのそれは、随分と古そうに見えるけれども、その使いこまれた雰囲気から出る不思議な味を、きっと京義は愛していた。染がいると、染がそこに座っているか寝転んでいることが多いので、京義はその場所を追われることになったのだが、その休日は珍しく染は自室にこもっているのか、談話室にはいなかった。ちなみに染は休日になると全く外に出ていかなくなるので、談話室にいないということはイコール、自室にいるで間違いがない。外に出るのは怖いくせに、ひとりでいるのは苦手なところがあるので、いつもその幼馴染は、その幼馴染の距離感を超えて、仲良くしていることが多かったけれど、今日に限って言えば、談話室には誰もおらずに、その相方の一禾の姿もなく、いつも賑わっているそこか静まり返っていることに、京義は少しだけ安堵しながら、多分寂しさも覚えていた。
(・・・寝るか)
染とは全く違う尺度で、京義も予定がなければ休日は外に出ないことが多かった。そもそも京義の予定は学校に行くか、バイトに行くかの二択しかない。京義は外に異常な怯え方をする染の交友関係が狭いことを、そういう尺度で多分責めることができないことは分かっていた。なぜなら交友関係の狭さで言えば、自分だって同じだからだ。別段、学校にも興味がなかったから、夏衣に無理やり入学手続きをされなければ、高校だって行くつもりはなかった。派手な外見を敢えてしているのは、何か別の理由で他人に寄って来られるのが不快だっただけで、京義にしてみれば、ある種の予防策だったのかもしれない。しかし、それが功を奏していたのははじめの何か月かだけで、その後紅夜が転校してきてからは、京義の日常は様変わりしてしまった。
(まぶしい)
革張りのソファーの上で寝返りを打って、京義は少しだけ目を細めた。誰かの体温がその茶色の革の下から感じられるような、不思議な感覚がする。ここには誰かが住んでいて、それを生々しく体温として感じることがあるのが、京義にとっては不思議に思うことがあるのだ。転校してきた紅夜は似非臭い関西弁で、京義の隣に立ってべらべらひとりでも喋り続ける煩い他人で、京義は一番苦手なタイプだなと、出会った頃は思ったけれど、最近その紅夜の印象は変わりつつある。自分と同じか、もしくはそれ以上のどこか危なげで脆いところを、多分本能的に隠そうとして、紅夜はあんな風にひとりでも喋り続けているのだろうと、それを聞きながら毎日思うことが増えた。交差点で偶然会った紅夜がここに来る前に預けられていたという家の息子に会った時も、いつも馬鹿みたいに明るくしているのが嘘みたいに、紅夜はその頬を青く染めて蹲っていた。まるでそれしか自分を守る方法を知らないみたいに。紅夜のことをよく知らないみたいに、京義は他の住人のこともよく知らない。ただみんな事情があって、家に帰ることができないので、ここを仮住まいにしていることしか、京義は知らない。
「ただいまー」
その時、談話室の扉が開いて、誰かが入ってきた。誰でも良かったけれど、起こされるのは嫌だったので、京義は体を丸めて眠っているふりをした。
「あれー、誰もいないのか」
帰ってきたのは一禾だったらしい。一禾はやけに大きい声でそう、独り言を言うみたいに言うと、すたすたと談話室を過ってダイニングテーブルの上に、買ってきたらしい食材の入ったスーパーの袋を乗せた。それから誰かパトロンから買ってもらった高級車のカギをぞんざいに置く。そういえば、染は談話室にいないなら自室にいる見当がついていたが、一禾の場合は少し複雑である。一禾は自室にはあまりいないことが多くて、それこそ寝る時くらいしかいることがない。ホテルにいる時は大体談話室にいて、料理を作ったり片づけをしたりしている。一禾は働き者でよく働くと、夏衣は与えられた役割しかしない京義と、稀に与えられた役割すらこなさない染を見ながら、少しだけ責めるように言うことがある。
「今日、どうしよっかなぁー」
一禾が独り言を零している。その一禾はホテルにいないこともあり、時々その毎日の労働を忘れるみたいに、一禾はホテルを出て行ってしまう。そのたびに主に食事のことでホテルの住人は頭を悩ませることがあるのだが、京義だけは、おそらくその中で京義だけは、一禾がそのまま帰って来なければいいのにと思っている。一禾が帰って来なければ、物理的な困りごとは増える一方であるが、そんなことよりもずっと、京義にとってはそのほうがずっと都合がいいことを、京義だけは知っている。
「あれ?京義」
ふっと眠ったふりをしている京義の顔に影が降りて、一禾が近づいてきたのだと分かった。さっきまでキッチンで食材を相手にしていたはずなのに、いつの間にこっちに来たのだろう、京義は考えながら目を閉じているふりをした。何か起きていては都合が悪いことがあるわけではないのに、京義は何となくその時、寝たふりをしていたほうがいいことが分かっていた。
「またこんなところで寝て、風邪ひくよ」
小言を言うみたいな声が、本当は優しいのを知っている。京義はわずかに睫毛を震わせて、その声に今は目を開けてもいいような気がした。眼を開けて、その時一禾がどんな顔をしているのか、見てみたいような気がした。けれど京義は目を閉じたまま、寝たふりを続けた。この狭いホテルの中で、この幼馴染が離れているのはとても珍しいことだった。その時染は談話室にいなかったし、買い物から帰ってきたばかりの一禾はひとりだった。もう少しひとりの一禾と一緒にいたかったのかもしれない。目を覚ましたら、目を覚ましてしまったら、染が現れるような気がして。そんなこと馬鹿げたことだと分かっていたけれど。
「風邪ひくよ、もう」
言いながら一禾が一度そばを離れた気がして、そしてややあってから体に何か被さるような感覚がした。少しの重みを感じたから、きっとブランケットが掛けられたのだろう。そろそろ寒い季節は終わって、春はそこまで迫っている。その時京義の体にかけられたブランケットは、少しその重みを感じるほどで、きっとそろそろこのブランケットは暑くなる。そんなことは分かっていたけれど、その温かみや少しの重さは、京義の知らない誰かが誰かを心配するような気持ちそのものであるような気がして、そんなもの京義は知らなかったけれど、想像でしかなかったけれど、京義は黙って寝たふりをしながら、少しだけブランケットの下で身じろいだ。
「おやすみ」
その時自分にそう囁かれた声が、優しく響いて、京義は今度こそ眠れるような気がした。
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