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ブランケットタイム Ⅱ
京義がホテルにやって来たのは、暫く前の話になる。胡散臭い笑みを張り付けた夏衣に連れていかれたのが、ここ『ホテルプラチナ』で、すでにそこには染と一禾が住んでいた。今とほとんど変わらない様相の談話室に、夏衣に背中を押されて押し込められた後、ふたりの好奇心丸出しの目の前に晒されて、京義はこんなはずではなかったと思ったけれど、それでは一体どんなつもりだったのだろう。今考えても分からない。夏衣のやることは、出会った時から無茶苦茶だったが、夏衣にはそれを押し通してしまう何故か押しの強いところがあって、京義は抵抗をしてみるけれど、いつもそれは徒労にしか終わらなかった。だからきっとその時も、京義の抵抗を夏衣は抵抗だなんて理解していないに決まっていた。
「皆―、ちゅうもくっ!今日からうちの住人になります、京義くんです!」
夏衣は京義の背中をさらに押して、そしてにこにこと笑った。京義はそれに抗議するつもりで、夏衣の顔を振り返って見たから、その時の夏衣の何も考えていない空っぽの笑顔のことはよく覚えていた。ぽかんとするふたりのうち、やっぱり先に動いたのは一禾で、染はただ知らない人間が急にやって来たことに対する怯えで、何故かソファーの後ろに半分は隠れていた。
「ウチの住人?君、随分若そうに見えるけど、幾つなの?」
「あ、そうだー、京義何歳なんだっけ?18くらい?」
「・・・15」
「わー、思ったより若い!中学生!」
相変わらず夏衣は明るい声で、とんちんかんなことを言って喜んでいる。京義のそばまでやってきた一禾は、一人で楽しそうにしている夏衣をぎろりと睨んだけれど、それに全く夏衣は怯んでいないし、そもそも一禾が睨んでいる意味を、きっと夏衣は分かっていない。その時、京義は一禾のことを冷静に観察しながら、この大人はきっと常識的な大人なのだと思った。けれど多分、常識的な一禾と、非常識な夏衣と、どちらがその時自分を助けてくれたのかと言えば、それは選びたくもないがきっと夏衣のほうだった。
「ちょっと待って、年齢も知らないで連れてきたの?親御さんとはどういう話をつけてきたの?」
「えー、ちょっと一禾怖いんですけどー」
「ちゃんと答えなよ、ナツ!」
「だってー、道の端っこに立ってて、話を聞いたら行くところがないって言うから―、なんか可哀想だから拾ってきちゃった、だめ?」
目の前で両手を合わせて、小首をかしげて夏衣が言う。なんだか随分事実と違うことを言っているなと京義はその時思ったけれど、それは言わないほうがことがこじれないで済むと思ったから黙っていた。どちらにしても、京義には行くところがなかったのは事実だし、一禾の常識が自分をここから追い出す可能性だってあることを考えてみれば、夏衣に味方をしていたほうが良かった、この時だけは。
「ダメに決まってるじゃん!家出?君、家出してきたの?親御さんには言った?この変なおじさんにほいほいついてきちゃだめだよ!」
「変なおじさんってやめてよー、俺まだ25なんですけど」
「うるさい、ナツはちょっと黙ってて!」
一禾はうんざりした顔をしたまま、京義の両肩を両面から掴んだ。その時京義は一禾の顔をはじめて正面からしっかり見ることになったのだが、端正に整ったその顔が、何故かその時は歪んでいて、一禾がどうして怒ったり焦燥したり呆れたりしているのか、京義には分からなかったけれど、その時の真剣な目のことを、京義は今でもはっきりと再生できる自信がある。そんな風に自分のことを正面から真摯な目で見つめる人のことを、京義は他に知っているような気がしたけれど、それが誰だったのかすぐには思い出せなかった。
「君、どういう事情があるのか分からないけど、帰れる家があるなら帰りなさい、こんなとこ来ちゃだめだ」
「こんなとこってなにさー、一禾はさー俺のこと人さらいと思ってるのー?」
「だからナツはちょっと黙っててよ!」
「自分だって住んでるんだからいいじゃーん、住人は多いほうがいいでしょ、楽しいし」
言いながら夏衣はにこにこ笑っている。夏衣の言葉にはそれ以上意味がないことを、多分一禾は分かっていたし、京義もその時夏衣とは会ったばかりだったけれど、たぶん頭の隅では理解していた。また一禾は頭が痛そうに溜め息を吐いている。その手はまだ京義の両肩を掴んだままだった。
「とにかく、親御さんに連絡をして・・・―――」
「親はいません」
ふっと京義から逸れた視線が、簡単に戻ってくる。京義はそれを感じながら、少しだけ安心をした。この大人は呼べばこちらを向いてくれる大人なのだと、それだけで理解できた。それだけ分かれば十分だった。一禾は京義の顔をもう一度正面から見て、それから京義が何を言ったのか分からないというみたいに、一度だけ瞬きをした。その眼は多分京義のことを純粋に心配している眼だった。久しぶりにそんな目を向けられたような気がする。まだ自分のことをそんな風に見てくれる大人が、ここにはいるのだと思えた。それは京義にとってはとても不思議なことだったけれど、思えば少しだけ懐かしいことでもあった。
「え?」
「親はいません、帰るところもありません、だからここに置いてください」
「・・・―――」
その時の一禾の顔のこともよく覚えている。とても悲痛に歪められたその顔は、きっと自分に同情をしているのだろうと思ったから、京義はよく覚えていた。それにしても一禾はこの短時間で、このどこから来たかもよく分からない男を相手に心配したり怒ってみたり同情したり、忙しいなと京義はそれを見てただ冷静に思っていた。そんな風に他人に色んな感情を向けられることに慣れていないせいで、それがひどく鬱陶しいようにも恥ずかしいようにも感じて、だからこそより一層冷静に一禾のことを見ていた。
「そんな・・・親御さんはどうしたの?事故か何かで急に亡くなったってこと?それにしても親戚の家とか・・・他に選択肢はあったんじゃない?なんでナツ・・・」
「まぁまぁ、いいじゃん。細かいところはさー、別に本人がそれでいいって言ってるんだから」
「いいわけないでしょ、今日日親も住むところも一気になくなるなんておかしいじゃない」
「人には色々事情があるのー、そんなに詮索しないー」
夏衣はそんな風に明るく言いながら、京義の肩を掴んでぐいっと自分のほうに引き寄せた。一禾の手が京義からするりと離れる。
「そんなことよりほら、早く自己紹介して」
「・・・んっとに・・・」
「怖い顔しないースマイル、スマイル」
一禾はふざける夏衣を見ながら眉間に皺を寄せていたが、諦めたのかふっと京義に向き直って、少しだけ頭を下げるようにした。
「あー・・・色々煩く言ってごめんね、俺は上月一禾って言って大学生です。一応、ご飯とか作ってるから、君が本当にここにいるつもりなら、好き嫌いあるなら聞いとくよ、よろしくね」
「・・・薄野京義です、よろしくお願いします」
一禾の差し出した手を握ると、ぎゅっと握り返されて、なんだかそれは随分大人の手のように思えて、とは言っても一禾だってまだ二十歳になったばかりだったのだが、その時の京義には、実年齢なんて関係なく、一禾がずっとずっと大人のように思えて眩しかった。
(まぶしい)
こんなに眩しい大人は見たことがなかった。
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