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ブランケットタイム Ⅲ
「染ちゃん、染ちゃんもちょっとこっちおいで」
一禾と京義が握手をするのを何故か満足そうに見ていた夏衣は、部屋の隅に逃避している染を呼んだ。夏衣が呼んだことで、京義の目の前にいた一禾の注意がぱっと逸れる。京義はそれを見ながら、無意識的に一禾の視線の先を追いかけた。ソファーの裏に隠れていたらしい染は、夏衣のそれと、何となく今までの流れを見ていたこともあるだろうが、それで逃れられないことは理解しているのか、そろそろと出てきて京義に近づいてきた。つられて見上げる。染は多分、京義が今まで見てきたどんな人間よりもはるかに美しくできていたけれど、どこかその表情か浮かなく、一禾とは別のベクトルで京義を歓迎しがたい雰囲気を纏っていた。
「染ちゃん、ホラ、挨拶して」
「うっ・・・うう」
一禾がやや乱暴に染の腕を引っ張って、そう言ったことで、何となくではあるが、京義には一禾と染の関係性が見えたような気がした。さっきまで他人の自分にはひどく優しい目をしてみせたのに、よく知っているらしい染にはどこか冷たく厳しい。けれどこれはふたりが親密であることの、逆に表れだったような気がする。一禾の顔のことはよく覚えているのに、京義はその時染がどんな風だったか、よく覚えていないけれど、多分時々ホテルに尋ねてくる人間を虫みたいに毛嫌いしている時に見せるそれと、おそらく何ら変わらなかったような気がする。その時の染にとっては、京義はよそ者でしかなかったからだ。
「こんにちは、えっと、黒川、染です・・・だ、大学生です・・・」
「・・・こんにちは、薄野京義です」
染がもごもごと口の中で自己紹介をするのを、観察しながら京義はただ決められたセリフを右から左になぞるみたいに言って、それからもう一度その染のことを隣で心配そうに見ている一禾に視線を移した。一禾はさっきまで自分の肩を掴んで確かに京義のことを心配していたはずなのに、その時はもう別のことを考えていて、染のほうを見て染のことを心配しているのだと、京義に悟らせるにはそれは十分な光景だった。ただ挨拶をするだけのことを、そんな風に優しい目で見ていたから。
「な、・・・ナツ、ほんとに一緒に住む、の?」
「ダメ?いいじゃん、ね。多いほうが楽しいよー」
「お、俺は多いのはちょっと苦手・・・かな、まぁ、女じゃないだけマシか・・・」
言いながら染はその美しい顔を頼りなく歪めて、へらりと笑った。その時、京義には染の言っていることがよく分からず、現状でも染が女の子を苦手としていることについては、そういう場面に今まで出くわしたことがないせいなのか、実感としてよく分からないでいたが、別に分からないでいることに特に不便がなかったので、あまりよく知らないし、知りたいとも思っていない。
「ごめんね、京義くん。このひとね、ちょっと人見知りっていうか・・・」
ふっと京義の視界に一禾が紛れ込んできて、一禾が染の話の続きをしているのだと気づくのに、少しだけ時間がかかった。
「人見知り?ちょっと違うな・・・うーん、でもまぁ、そんな感じなんだ、別に悪気があるわけじゃないから、許してね」
「・・・はぁ」
どうして他人が他人のことを分かっているみたいに、自分のことのように言うのだろうと、染の代わりにやけに饒舌に喋る一禾を見ながら、その時京義は考えていた。悪気がたとえあってもなくても、そんなこと京義にはどうでもよかったし、住むことを反対されなければどうでもよかった。それに染は一禾とは違って、京義がここに住むことに対して若干の抵抗はあるみたいだったけれど、決定を覆すほどの権力をここではどうも持っていないようだった。それは染の様子を見ていればすぐに分かることだった。
「ふたりは大学生で、同じ大学に行ってるの、幼馴染でずーっと一緒にいるんだよね?だからすごーく、仲良しなんだよ」
「なにそれ、その毒のある言い方」
「毒なんてないよー、一禾の勘ぐりすぎじゃない?」
言いながら夏衣は、わざとらしく笑った。一禾が一層眉間に皺を寄せて、不快そうな表情を浮かべた。何となく一禾がそれを否定しないのは、夏衣が正しいことを言っているせいなのかなと、黙ったまま京義は考えた。このふたりはきっと特別なのだ。そういう特別な相手が側にいるということは、一体どういうことなのだろう。一体どんな気持ちがするのだろう。考えながら京義は、そっと染のほうを見やった。染は自分の役割を終えたと勝手に思っているらしく、まだ一禾と夏衣は話をしているのに、それからいつの間にか距離を取って、ソファーに戻っていて、そこにちょこんと座っていた。
「だって俺は事実を言ってるだけじゃーん」
「それはそうだけど・・・言い方が気に入らない」
「なんなの一禾、言いがかりなんですけどー」
あの優しい眼差しをそうして一身に受けているのかと思うと、その時京義はほんの少しだけ、染のことが羨ましいと思った。そして同時にまだそんな風に誰かに期待をしてみたりすることが、自分にはあるのだと思って、それには少し落胆をしてみたりもした。染はそこで革張りのソファーに座ったまま、勿論一禾の優しさなど、おそらくはいつものことだったから、余りそれに気をやる風でもなく、ただそこでじっとついているだけのテレビを見ていた。京義の視線に気づくこともなく。
「それじゃあ京義、ホテルの中を案内してあげるよ」
ふと側から夏衣の声がそんな風に自分のことを呼んで、京義はすっと自然な動作で染から視線を外した。夏衣は京義の肩を掴むとくるりと強引に向きを変えて、入ったばかりの談話室から出ていくつもりでその肩を押した。京義がよろよろ進むのに嬉しそうに後からついてくる。
「びっくりした?染ちゃんすごい美人でしょう。俺も生きてきて色んな人間を見ているつもりだけど、あんなの初めて見たよ」
談話室から出たところで楽しそうに夏衣が言うのを聞きながら、京義が考えていたことは別のことだったけれど、確かに夏衣の言うように、染の人間離れした容姿は、そう形容されるもので間違いがないと思った。本人にその自覚があまりなさそうなところが余計、それを洗練されたものにしている気がする。一禾も人並み以上は整っているほうなのだろうが、染と並んでいると霞んでしまう。それでもずっと一緒にいるというのは、一体どういう気持ちで忍耐なのだろうと京義は思った。
「京義は3階が空いてるから3階にする?ふたりは2階を使ってるから、別に部屋余ってるから2階でもいいけど」
どうでもいい夏衣の独り言についていくと、大階段の前で夏衣はくるりと振り返った。そして眼鏡をついと触る。そういえば、夏衣はその眼鏡をずっとかけていたけれど、全く似合っていない、と思った瞬間に夏衣の眼鏡の奥の瞳がきらっと光って、京義はなぜかそれにゾッとした。
「それで、階段の下が俺の部屋。京義にはちゃんと説明しておかないとね、おいで」
ふっと夏衣が手の形を変えて、それで京義を部屋の中に誘う。それについていきそうになって、慌てて京義は足にブレーキをかけた。夏衣は京義がついてきていないのに気付くと、ふっと振り返ってそこに立ち竦んだままの京義のことを見た。
「どうしたの、京義」
「今更怖くなっちゃった?でも京義とはそういう契約だからね、仕方ないよね」
そう言って夏衣は、あははと無邪気に笑い声をあげた。
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