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ブランケットタイム Ⅳ
その夜はひどく静かだった。昼間にソファーでうとうとしてしまったのが原因なのか、あまりうまく眠れそうにない。考えながらぐるりと寝返りを打つと、ベッドに腰かけている裸の背中が見えた。薄目を開けて、京義はそれを見た。夏衣の体は、出会った時より段々と薄っぺらくなっている気がする。それを見ながら、京義は二三度意識的に瞬きをした。一禾が最近ぼやくみたいに言っていることを、京義は思い出しながら考えた。一禾はそうやって誰にでも勝手に心配をしている、それはもう無差別的に。そういう性格なのだろうと思いながら、自分にはそういうアンテナがないので、そういう生き方は生き辛いだろうなと思ってみたりする。それはもう他人みたいな感覚で。勿論他人には変わりなかったけれど。
「あれ、京義起きてたの?」
不意に夏衣が振り返ったのに目が合って、目を瞑っているのを忘れたと京義は思った。夏衣はタバコを吸っていたようで、吸殻を灰皿の上にぞんざいに放った。まだそれは火が付いたままで、灰皿から薄く煙が立ち上っている。その行方を何となく目で追いかけながら、夏衣が近づいてくるのを見ないようにしていた。夏衣は京義をここに連れてきた時、他の二人と京義は違うから勘違いしないようにと言った。そして紅夜を連れてきた時も、紅夜とも京義は違うのだと言った。その違いの意味合いを、京義はよく分からなかったけれど、どうも寝室に呼ばれるのは自分だけらしいと、明るく振舞うのを自室でだけ意図的にやめる、気だるそうな夏衣を見ながら考える。どちらが本当の夏衣で、こんなことに何の意味があるのか、京義は知らない。
「なぁ、お前」
「ん、どうしたの?」
「お前さ、今体重何キロあるんだよ」
「・・・―――」
夏衣のほうを意図的に見ないようにして、京義はそう尋ねた。一禾の真似がしたかったのかもしれないし、意識的に顔を背けさせるほど、その時の夏衣の裸は見られたものではなかったのかもしれない。夏衣はいつものようにそれを茶化しはしないで、尤も京義の前でそんな風に取り繕うことは、もはや夏衣にとっては無意味だったのだが、とにかくその時夏衣はそれにただ不快そうな表情を浮かべただけだった。
「そんなことなんで京義が気にするの、一禾みたいなこと言わないでよ」
「痩せすぎだろ、気持ち悪ィ」
「はいはい、ごめんねぇ、今度から着衣セックスにしてあげるよ、そしたら」
寝ころんだままの京義の頭をぽんぽんと雑に撫でると、夏衣は隣にそのままごろんと転がった。そういうことが言いたいわけではなかったけれど、これ以上突っ込むと墓穴を掘りそうだったので、京義はそれ以上は言わなかった。別に一禾みたいに心配しているわけではなかったけれど、ただ不思議ではあった。夏衣はちゃんとご飯を食べているし、その癖、談話室ではチョコとかクッキーみたいな、一禾の嫌がる高カロリーのお菓子をよく食べている。それなのに日に日に夏衣は薄っぺらく小さくなっていて、少しだけそういう感じは怖いような気がした。京義はそういうひとを他に知っていたから。
「京義ってさぁ、一禾のことほんと好きだよねぇ」
「・・・はぁ?」
「いや、俺も一禾のことは好きだよ、あんなに大事に思っているのに全く報われないんだから、すっごく可哀想じゃん。可愛がってあげたくなっちゃうよね、代わりに」
京義のそれを否定とは思っていないのか、夏衣は仰向けのままべらべら喋って、ひとりであははと笑った。夏衣に京義の中の複雑な感情を全部ひっくるめて結局「好き」なんていう単純な言葉にされるのが、京義には不快でしかなかったけれど、他にしっくりくる言葉を、京義自身もよく分からなかった。「好き」というのがしっくりきているのかどうかは別としても。
「でもあの子はさぁ、頭の先からつま先まで、もう全部他の人のものじゃん、見てれば分かるでしょ、そんなの」
「だから、一禾のことを好きでいても無駄だよ、京義。それでも京義が一禾のことを好きなのは、別に構わないんだけどさ」
「想っていても叶わない人のことなんて、想うだけ無駄だと思わない?」
それには全く返事をしない京義の側で、夏衣は誰に話しかけているつもりなのか、上を向いたまま独り言みたいに呟いた。そうやって自分に言い聞かせているみたいだと思ったけれど、夏衣は誰かのことをそんな風に思ったりすることはないのだろうと、例えば一禾が染のことを大事にしていて、あの優しい眼差しを一身に降らせるみたいな要領で、誰かのことを愛するなんてことはきっとないのだろうと、何故かその時、夏衣の横顔を見ているだけの京義には簡単に分からせられた。
「そうしたら京義も報われなくて、可哀想で不憫だから、その時は俺が慰めてあげるね」
「・・・やめろよ、気持ち悪い」
伸びてきた手を払うと、夏衣はまだおかしそうにその痩せた肩を震わせて笑った。夏衣にいくら辛辣な言葉を使っても無意味なことは分かっていた。分かっていたから多分、京義はそうやって簡単に夏衣のことを傷つけたりもした。夏衣がそれで傷ついているかどうかは、また別としても。
「一禾は不思議な子だよねぇ、あんな風に真っ直ぐに歪んでいる子初めて会ったよ」
「・・・染のせいだろ」
「自分だってさ、別に完璧に整っているわけでもないのに、どうしてあんなに他人のことばっかり考えることができるんだろ、俺には全然意味が分からないや」
「お前は自分のことばっかりだからな」
はぁと溜め息を吐きながら京義が言うと、夏衣はまた少し前傾姿勢になって、くつくつと笑い声を漏らした。夏衣は京義をここに連れてきた時に、自分の部屋に招き入れることを契約と呼んだ。自分がまるでそれに従うしかないことを知っているみたいだと、京義はそれを聞きながら考えた。ここには色んな人間が色んな事情で住んでいるけれど、京義はその事情を夏衣にすら話していない。話さなくても別にいたいならいたらいいよと言われたことについては、ただ単純に助かっていた。一禾がそうやって全方向に心配症を向けるみたいなやり方を取るのと同じように、夏衣は全くこちらに干渉してこないので、それはそれで助かっているくせに、人ひとりが生きていることの重みみたいなことを、夏衣が全く考えていないことについては、なにか恐ろしい気もするのだ、一方では。
「そうだね、それが染ちゃんのせいなんだとしたら」
「だから京義は自分が染ちゃんを責める権利があると思ってるの?」
嫌な言い方だった。責める権利なんて京義にはなかった。京義だけじゃなくて他の誰にも、多分そんなものはここでは存在しなかった。夏衣はそれを分かっていたし、京義も多分分かっていた。分かっていて言っていることを、双方織り込み済みだったけれど、だとしたらそれはそれで、いやらしくて嫌な言い方だと京義は思った。夏衣の後頭部を睨みつけても、夏衣はただおかしそうに笑っているだけで、京義の欲しい答えはただ広いばかりで何もないこの部屋のどこにもなかった。
「うるせぇな」
「一禾もかわいそうだけど、京義もかわいそうだ。あんなまるごと他人のものみたいな人間のこと、愛したって意味ないよ」
「誰もそんなこと言ってねぇだろ」
「そうかなぁ、京義は優しくされるのに慣れてないから、ちょっと一禾が優しくしたらそれをすぐ勘違いするじゃない、そんなの染ちゃんへの気持ちの、ただのおこぼれだって分かっているくせに」
「・・・―――」
奥歯を噛むと、歯同士が擦れる音が、頭蓋骨まで響いて悲しかった。夏衣はこちらを向かないまま、やっぱりおかしそうに笑っている。夏衣の勝ち誇ったようなそれを、今すぐ否定する言葉を探しても、この部屋には初めからそんなものは用意されていないのだ。
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