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ブランケットタイム Ⅴ
「お疲れさまでした」
バイト先は夏衣が用意してくれた。働きたいと京義が言うと、自分は何もしていないくせに、『京義に何ができるの』と鼻で笑ったけれど、それに京義が『ピアノが弾ける』と答えてしまったせいなのか、口を滑らせたおかげなのか分からないけれど、暫く経ってそんなこと話したことも忘れた頃に、夏衣は京義を連れて『ミモザ』までやってきた。昼間は喫茶店で、夜はバーになる『ミモザ』の店長は、童顔の顔を少しだけ強張らせて、京義のことを迷惑がっているのかと思えば、そうでもなく急に優しくしてきたりもして、京義は少し混乱することになったが、『ミモザ』での時間はホテルで過ごす時間でもなく、学校で過ごす時間でもなく、京義にとってはとても大切な時間になりつつあった。ちなみに夏衣は京義を店に連れてきて以来、一度も『ミモザ』には訪れていない。時々思い出したように『バイトどう?』なんて聞いてくることもあったが、それすら稀だった。
「京義くん、今月もありがとう。お客さんの評判も上々だよ、また来月もお願いね」
「・・・はい、よろしくお願いします」
童顔の店長、白石は今日も京義を見てにこにこと、その人のいい顔を綻ばせている。京義が認識している範囲では、京義の周りには変な大人しかいなかったから、白石と話をしていると、普通の大人はこんな風に落ち着いていて、頼っても少しのことでは倒れたりしないのだろうとこちらに簡単に思わせることができるのだということに、単純に毎回新鮮に驚いている。
「てんちょー、いつも京義に甘すぎでしょ」
「片瀬くん」
白石の後ろからスタッフルームに現れたのは背の高い男で、白石は振り返って彼の名前を呼んだ。片瀬は深夜のシフトに入っていることが多く、そのせいか京義とも仕事の時間が被っていることが多かった。あっけらかんとした性格で、仕事は大雑把なところはあるが、あまり京義の事情に首を突っ込んできたりもしないタイプなので、話をしている分には、と言っても京義はほとんど話をしないので、片瀬の話を一方的に聞かされるだけでしかないのだが、京義としては楽だった。何かと詮索されるのが一番嫌だった。
「もうちょっとお前さぁ、愛想よくしたほうがいいんじゃねぇの」
「まぁまぁ、別にいいじゃないか。京義くんは接客してるわけじゃないし」
「でもにこりともしないのは変でしょ、拍手されたらニコッと笑ってお辞儀!それくらいしろ、マセガキ」
「はぁ・・・すみません」
片瀬が怒っているわけではなく、ただ冗談の延長みたいな話をしているだけだと京義は分かっているので、それに別に慎重にならなくても、適当に口先だけで話を合わせておけばよかった。そういう風に京義が考えていることが、おそらく片瀬にもばれていることを、京義は知っていたが、片瀬がそれに何も言ってこないので、京義はそれでもいいのだと勝手に思っている。
「客のリクエスト聞くとかさぁ、なんかねぇのお前、いっつも辛気臭い曲弾きやがって」
「辛気臭い曲って、クラシックだよ・・・片瀬くん」
「辛気臭いでしょうが!店長もそう思いますよね?」
「俺は全然思ってないけど、うーん、でも確かにお客さんのリクエスト聞いたりするのはいいかもしれないね」
ふっと白石がこちらを見て、京義は意見を求められていると思ったけれど、それに何と答えたらいいのかよく分からなった。白石がそんな京義の困惑を読み取るみたいに、また優しく笑う。それを見て少しだけ、京義はやっぱりほっとしていた。
「京義くんどう?そういうのやってみる?」
「・・・でも俺、クラシックしか弾けません」
「なんかあの、ぱぱっと聞いてぱぱっと弾けるやつあるじゃん、あぁいうの、できねぇのお前」
片瀬の指が、空気中をピアノを弾くみたいに過って、京義はそれを目で追いかけた。京義にはピアニストによくある絶対音感はなかったし、『ミモザ』で弾く曲は学校で練習に練習を重ねた成果なのだ。京義はピアノが好きだったが、多分自分はあまりピアノが得意ではないのだろうという自負はあった。だからこそ練習を惜しんだことはなかった。京義はもっともっと天才を他に知っていたから、それに自分が追い付けるなんて一つも思っていなかったけれど、近づくことはできるのではないかと思っていた。だから練習だけは惜しまなかった。けれど片瀬がその時、まるで京義の努力を知らないみたいに、そんな風にデリカシーなく言ったことに、思ったより傷ついていなかったし、多分怒ってもいなかった。
「・・・そういうの、は、多分できません」
「弱気に出たな、随分」
「片瀬くん」
その片瀬を窘めるみたいに、白石が少しだけ大きい声を上げて、京義はぱっと俯いていた顔を上げて、白石を正面から見た。できないということに、怖いと思ったことはなかった。京義は昔からできないことのほうがずっとずっと多かったからかもしれない。
「でも、例えば、俺の弾ける曲の中から選んでもらうとか・・・そういうのなら、できると思います、たぶん」
だからその時そんな風に言えた自分のことを、京義は褒めてやりたいと思った。
その日、京義がバイトから帰ってくると、部屋の前に何か置いてあるのが目に入った。近寄ってしゃがんで確認すると、それはトレーの上に夕食だったはずのビーフシチューだった。ご丁寧にラップが掛けられていて、付箋が張り付けられている。一禾の美しい少し斜め右上がりの字体で、『おつかれさま、よかったら温めて食べてね』と書いてあった。まるで京義が談話室に寄らずに、そのまま自室へ直行することを知っているみたいだと思ったけれど、それはいつものことだったから、一禾はここにこうして置いたのかもしれない。京義はもう一度しゃがんでラップのかけられたビーフシチューを眺めた。
『京義は優しくされるのに慣れてないから、少し優しくされたらそれをすぐ勘違いしちゃうじゃない』
『そんなの染ちゃんへの気持ちのおこぼれだって分かっているのにさ』
いつだったか、夏衣が自分にそんな風にひどく投げやりに言ってきたことを、京義はそこで何故か思い出していた。それが一禾の優しさだと自分で自覚しているからなのだろうか。いつの間にか強く手を握っていて、その手の中で付箋がぐしゃりと歪んでいた。たとえそうでも、それが染への気持ちのおこぼれなのだとしても、京義は一禾のそれを邪険になんて扱えないどころか、ちゃんと心の中を温かくしてくれるそれのことを、自分に向けられた理由のない優しさだと分かっているし、それを受け止める準備もきっとできている。夏衣にそんな風に捻くれたように囁かれても、自分のそれが揺るがないでいることは少し不思議だったけれど、それがもしかしたら人を好きになることなのかもしれないと、たったひとりで深夜に自室の前に立ったまま、考えたりもするのだ。
(俺はまた誰かを好きになったりするのか)
(手に入らない人ばかり)
考えながら奥歯を噛んだら、歯が軋んだ嫌な音が、やっぱり頭蓋骨まで響いて痛かった。頭の先からつま先まで、一禾が丸ごと誰かのものでも、その優しさにやっぱり触れていたかった。これが人を好きになることでも、そうじゃなくても、京義にとってはどちらでも、もしかしたら同じ意味だったのかもしれない。京義はその夜、自室の前にしゃがんで、ラップのかかったビーフシチューを長い間眺めていた。どんなに長い間見つめても、それに答えなんて初めからないことは分かっていたけれど。
優しいことはいつだって、温かかった。温かくて、それから多分京義とっては悲しかった。
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