222 / 302
ブランケットタイム Ⅵ
一禾はホテルから時々ふらっといなくなることがあった。それはいつも生真面目に生きている一禾を知っている側からしてみれば、いつもの一禾からは全く想像できないほど、性急で、そして美しくなかった。一禾はただの大学生にしてみれば、身に着けているものとか、乗っている車とか、あからさまに自分の懐ではないところから、お金が出ているのだろうというものに囲まれて生きている。そしてそれを、別段誰にも隠さない。ホテルの住人にもそうだし、大学の友達相手にもそうだった。だから京義が一度、夜道で一禾が車で拾ってくれた時に、これから女のところに行くのかと尋ねた時、一禾は教育上悪いと言って笑いながら、それでもそれに否定はしなかった。きっと息が詰まるのだろうと、生真面目な背中を見ながら京義は何度も思うだろう。一度、紅夜ともそんな話をしたことがあったけれど、生真面目に行き過ぎている一禾は、時々バーンアウトするみたいに、全てを投げ出して、自分をただ甘やかせてくれる存在の側で、きっと猫みたいに丸くなって眠っているのだ。
「ただいま、京義」
その日、一禾を見かけたのは、煩い談話室から京義が抜け出した時だった。一禾はしばらくいなかったような気がするけれど、それを感じさせないほど、その時は軽装だった。旅行鞄の一つも持っていない。一禾は多分、身ひとつで女の家に転がり込んでも、他の何かを心配することはないのだ。例えば翌日の服の心配なんて一禾にはさせないほど、彼女たちは細くて長い、京義よりも遥かに頼りないその指で、その指を少し動かすだけでまるで魔法みたいに一禾のそれを用意してみせるに決まっていた。
「あれ、喜んでくれないの」
京義がそれに眉間に皺をよせたのがいけなかったのか、一禾は首を竦めるようにして、少しおどけるみたいにそう言った。京義は一禾がホテルから姿を消すたびに、一禾はもう二度と帰って来ないのではないかと思う。そうして一方で、もう二度と帰って来なければいいのに、とも思う。きっとホテルの住人でそんなことを思っているのは、自分一人だと分かっている。一禾は、染をはじめとするホテルの住人にとても信頼されているし、何より頼りにされている。オーナーである夏衣よりも多分遥かに。だからこそ、一禾は時々その完璧な微笑に影を落として、ホテルから逃げ出すみたいに影を潜めるのだけれど、多分、その大いなる理由は、夏衣や紅夜ではなく、そして京義でもなく、それは染の側にいるのが苦痛だからだ。京義だけはその眠たい瞳で知っている。一禾のことを人知れず、毎日観察しているから、京義だけはそれを知っている。
「・・・染なら中だぞ」
「ありがと」
一禾は笑って、また少し首を竦めた。こういう時に、どうして染の話をするのかと、一禾は決して口にしない。それが一禾にとっては不思議なことではないからだ。自分が急に出て行ったことも、そして急に帰ってきたことも、そんなことはどうでもよくて、ただ染の居場所だけが、染の存在だけが、一禾にとっては意味のあることなのだ。それが夏衣の言う、丸ごと誰かのものであるということの証明なのだろうと、京義は一禾がこちらに背を向けるのを見ながら思った。そんなものに手を伸ばしても無意味だと、夏衣は寝転んだまま京義を諭そうとする。自分は何にも手を伸ばさないで、その安全地帯を出る気なんかないくせに、そんな臆病な大人の癖に、京義にはそうして上から目線で諭してきたりもする。
「おい」
その半身になる背中に、京義は思わず身を乗り出すようにして、声をかけていた。夏衣が笑ったような気がしたが、京義はそれを振り払うみたいに、なんともなしに振り返った一禾の顔を、今度は真っすぐ正面から見据えた。一禾の顔はいつ見ても変わらず美しくて、その不出来な幼馴染が、一禾の顔にいつも影を落とさせるくせに、変わらずいつも美しくて、きっと一禾の周りの暇な金持ちは、四六時中それを愛でては喜んでいることを、馬鹿にはできないと思った。京義はなんだかその彼女たちの行き場のない無意味な思いみたいなことを、自分だけはよく知っているような気がしたからだ。
「・・・?」
「なんで帰って来たんだよ」
愚問だと思ったけれど、京義はそう声をかけるしかなかった。一禾はそれに少しだけ驚いたような表情を浮かべた。一禾が誰にも何も言わずにホテルを出て行っても、必ずここに帰ってくることを、ここの住人が皆右から左に信じていることを、多分一禾も同じ要領で信じていたに違いない。自分が返ってくる場所がここに用意されていて、それをみんなが同じように望んでいるということを。だから京義がそんな風に自分のことを否定するようなことを言ったことに対して、多分一禾は純粋に驚いていた、その時。
「俺が帰る場所はここだよ、ここにしかない」
そうして、一禾は答えのようで答えではないことを、言ってそうしていつもみたいに完璧に微笑んだ。自分がここで多少手を足をばたつかせて、それに抵抗して見せたとしても、意味がないのだと京義に思わせるほど、それは完璧な微笑だった。京義はそれを見ながら、舌打ちをしたいような気がした。意味なんてないのは初めから分かっていた。分かっていたけれど、夏衣だけでなくその時一禾からも、意味なんてないと言われているみたいで、それをまるで知らしめられているみたいで悲しかった。
「・・・染がいるからだろ」
悔し紛れに京義はそう自動的に呟いていて、自分で自分の傷を拡げるみたいなこと、墓穴の下でさらに穴を掘るみたいなことを、寄りにもよって一禾の前で、どうしてしてしまうのだろうと思った。こんなことを言ってもただ惨めになるだけだと頭では分かっているのに、どうしてこんなことしか言えないのだろうと思った。こんな時染ならどうするだろうなんて、考えるだけ無駄だった。一禾はきっと染とこんな話をしたりはしない、絶対に。少しだけ床のタイルを這わせた視線を上げて、一禾のほうを見ると、一禾は多分少しだけ驚いていたけれど、すぐにその顔をいつもの様相に戻して言った。
「そうだよ」
それが京義に対するすべての答えだと言われても、京義はきっとそれに納得がいくし、頷いてしまうだろうと思った。理由なんてないし、ましてや理屈で説明できるものでもなかった。悲しいけれど悔しいけれど、一禾は丸ごと誰かのもので、それに手を伸ばしても一禾は絶対に他の人間の手は掴まないことが分かっている。こんなにも明白にされてもまだ、京義は自分の部屋の前で、冷めたビーフシチューを見ているような気分だった。あれは一禾の優しさの象徴だった。優しさが目に見えるものならきっと、一禾の優しさは冷めたビーフシチューの形をしているのだ、きっと。京義の前だけに限って言えば。
「そうかよ」
他に何を言えばいいのか分からなくて、京義は一禾に背中を向けると、そのまま大股で階段を上って行った。3階にある自室に辿り着いても、今日に限って言えば、その扉の前にはビーフシチューは置いていない。そんなこと京義は分かっていたけれど、それでも歩みを進めて、一刻も早くそこに辿り着かなければと思った。何もなくても良かった。何もないほうが安心できるから、何もないほうがむしろ良かったかもしれない。3階まで駆け上がった京義の耳の側で、上がった息が煩かった。やっぱり部屋の前には何もなかった。京義はそこにしゃがんで、暫く何もない扉の前を見ていた。一禾が自分に優しくしてくれたことが、例えば染のおこぼれだったとしても、他の人にするのと同じような、気紛れだったとしても、そんなことはもうどちらでもよかった。
どちらでもよかった。京義はもうそれが温かい温度をしていることを、知ってしまったから。
ともだちにシェアしよう!