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ブランケットタイム Ⅶ

目を覚ますと、談話室のソファーの上にいた。いつの間に眠ってしまったのだろう、長くて嫌な夢を見ていたような気がするけれど、一体それが何だったのか、京義は思い出せなかった。体を起こしてみると、そこには多分京義が自分で引っ張ってきたわけではない、ブランケットが掛けられていた。そんなものを寝ている自分にかける人間はひとりしか知らなかった。 「あー、京義、起きたん、おはよう」 「・・・あぁ」 ブランケットを握ってぼんやりしていると、京義が起きたことに気づいた紅夜がどこからともなくやってきて、京義の視界に強引に割り込むと、いつもの憎めない顔をぱっと明るくしてそう言った。それに何と返せばいいのか、多分おはようと言われているのだから、おはようと返せばいいのだろうことは分かっていたけれど、何となく京義はそれが言えなくて、まだ起き抜けでぼんやりしているふりをした。それに京義に限って言えば、今起きたところだけれど、時間は夜も深まっていて、とてもおはようというような時間帯ではなくなっていた。それを指摘すべきなのかどうか、京義はまだブランケットを握っている。 「もうすぐごはんやでー、いいタイミングで起きたな!」 言いながら紅夜は何が面白いのかニコッと笑って、それに京義が何か返事を考えているうちに、さっと身を翻してダイニングのほうに戻っていった。京義は何となくソファーから離れがたくて、そこから紅夜の去っていった方向に目を向ける。 「一禾さーん、京義起きたで」 「あ、ほんと?一緒に食べてくれると助かるー」 キッチンから一禾の声が聞こえてくる。そういえばなんだか空気が温かいような気がして、それは今まで京義がここで眠っていただけの理由ではどうもないようだった。その温まった空気に匂いが混ざっていて、もうすぐ夕食が始まろうとしているのが、気配だけで分かった。何となく京義は、いつの間にかそんな風に、誰かが自分のために食事を作ったり、その食事を誰かと一緒に囲んであぁでもないこうでもないと言いながら食べることを、日常的なことなのだと認識しているのだと、その時ぼんやりと気づいていた。 「京義、おはよう」 「・・・おはよう」 紅夜がどこかに行ったと思ったら、今度は一禾だった。いつもの紺色のエプロンをして、京義を見下ろしたままにっこり笑っている。一禾のそれに同じように、紅夜の時には躊躇ったが、今度はなぜか迷わなかった、挨拶を返して京義はブランケットから手を離した。いつの間にかそれをぎゅっと握りしめていて、なんだかそれを一禾に見られて恥ずかしくなってしまったからだ。 「起きてすぐで悪いんだけど、今からご飯にするんだよね、京義も食べられる?」 「・・・あぁ、うん、食べる」 「良かった。あ、紅夜くーん、京義の分もお皿出してあげて」 「はーい」 今日はなぜか紅夜が手伝っているのか、いつもは一禾しか入らないキッチンから紅夜がそう返事をするのが聞こえた。そうして一禾は京義が手放したブランケットを取り上げると、それを実に無駄のない動作で畳んだ。その行方を京義は何となく追いかけてしまう。一禾はそれを持って、談話室の端っこに置いてある、夏衣の読んでいる本が仕舞ってあるだけの本棚の引き出しを開けて、そこに仕舞い込んだ。あそこにあれは入っていたのかと、京義は思いながら、一禾の背中を眺めていた。 「どうしたの、京義」 じっと見ていたのが分かったのか、一禾はくるりと振り返ると、にこりと笑ってそう言った。京義はそれに答えようとして、口を割ったけれど何を言うべきか思いつかなくて、結局そのまま口を閉じた。一禾は黙ったままの京義にそれ以上追及はしないで、さっと立ち上がると、またキッチンのほうに歩いていく。あれはあそこに仕舞われていたのか、京義はもう一度考えながら、一禾が閉めた本棚の下の引き出しをじっと眺めていた。寒くなったら、寒くなって寂しくなったら、今度は自分でそれを見つけられるように、場所をちゃんと覚えておかなければいけなかった。紅夜が自分のことを根無し草だと思っているみたいな感覚と、きっとそれは似ているのだと、京義は認めたくないけれど思っている。自分を温めてくれる存在を、自分に優しくしてくれる存在を、いつもそこにあるものと思ってはいけないことを、多分京義は分かっている。 「京義、ぼーっとしてんと、手伝ってや」 「・・・あぁ、うん」 紅夜がそうやって無駄に声を張り上げるのに、京義は至極適当に返事をして立ち上がった。そういえば、談話室の中には一禾と紅夜しかいなかった。夏衣と染は一体どこにいるのだろう、と一瞬思ったけれど、考えるだけ無駄だった。ふたりとも自室にいるに決まっていた。そこしか行くところがないみたいだと思ったけれど、それは多分京義も同じだった。 「あ、そうだ。京義」 「・・・なに」 振り返った一禾にまた見つめられて、京義は足を止める。なんだか嫌な予感がした。 「染ちゃんとナツ呼んできてよ、もうすぐご飯だって、ふたりとも部屋にいるし、多分」 「・・・あー・・・面倒くさい」 「もう、わがまま言わへんの!今まで寝てたんやからちょっと動き!」 多分一禾は京義がそう言うだろうということは分かっていたから、京義のいつもと同じ答えを聞いて、一禾には仕方ないみたいな顔をされたけれど、紅夜は京義がそうやって自分に都合の悪いことを回避するのを許さないみたいな、そういう変な正義感というか強情なところがあって、本当に勘弁してくれと思うことが日に何度もある。紅夜について言えば、京義が嫌そうに眉を顰めたところで、例えばその攻撃の手を緩めるとか、そういうことがないので、何の意味もないことが分かっている。 「頼める?京義」 「・・・分かった」 仕方がないので一禾のそれに頷いて、京義は談話室を出て行った。ホテルの住人は、別にそんな決まりがあるわけではないけれど、一緒にご飯を食べることを、まるで染み付いた習慣みたいに譲らない。一禾が付け足すみたいに言っていたけれど、食べた後の後片付けのことで言えば、一緒に食べてくれたほうが、片付けも一度で済むからありがたいというのは本音なのだろうけれど、多分ホテルの住人が、一緒にご飯を食べているのはそう言う意味合いではないことを、京義は何となく分かっている。 (・・・春は眠いな・・・) さっき起きたばかりなのに、もう眠気が自分を捉えようとしている気がする。それはきっと春だけのせいではないことを、京義だけは分かっていた。京義はもう欠伸を噛み殺しながら、とりあえず夏衣は後にして、2階の染の部屋までの階段を上っていた。 新しい季節がきて、きっともうブランケットがなくても寒くはなくなるのだろうけれど、また寂しくなることがあるかもしれない。そしたら今度は自分で、あのブランケットを取りに行こう。取りに行ってくれる人が、一禾でなくても構わないし、取りに行ってくれる人がいなくても構わない。 京義はひとりでも、ブランケットを広げれば寂しくはないはずだった。

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