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カフェノワール

その日、京義がバイトから帰ってきて談話室の扉を開けると、珍しくまだそこに電気がついていた。いつも京義がバイトから帰ってくる頃には、ホテルの住民は寝静まっていることが多い。京義のバイトが終わるのが遅いのがその最たる理由だけれど、ここの住人は不思議なことに、割りと夜はちゃんと眠って朝起きるという生活をしているのだ。誰かがそれを見張っているわけでもないのに。 (・・・ねむ) 欠伸をひとつ奥歯で噛み殺すようにして、京義は財布と携帯電話しか入っていない鞄を椅子の上に置いた。バイトから帰ってきて、そのまま自室に直行して眠ってしまうこともあったが、なんとなく今すぐこのまま眠ってしまいたくない時は、何もなくても談話室に来て、何をするわけでもなくそこでだらだらと過ごすこともあった。眠いなら早く眠った方がいいし、ここでひとりで過ごす時間に何か意味があったわけではなかったけれど、何となくそれを続けてしまっている。夜の談話室は昼の喧騒が嘘のように静まり返っていて、京義にとっては心地よい場所のひとつだった。誰の気配もしない誰の匂いもしないし誰の声も聞こえない。ソファーにでも横になろうと思って、でもそのまま寝てしまったらきっと朝までそこで眠ることになって、朝の早い一禾に怒られながら起こされるのが目に見えていた。一応談話室で眠ることはホテルの中の数少ないルールで禁止になっている。 (あれ・・・) ソファーに近づいてみると、京義はその時まで気がつかなかったけれど、そこに誰か眠っているのが、薄闇の中の不自然な丸みで気づかされた。鳶色の髪の毛がソファーの上にこぼれていて、そこにいる人物が誰なのか、京義はすぐに分かった。 (一禾) きっと昨日、遅くまで談話室にいて、この辺りを掃除していたり明日のお弁当を作っていたりしたのだろう。ルールに厳しい一禾も無断外泊をすることもあるし、それどころか行き場を伝えずにふらふらと何日間も行方知れずになることもあった。そうしてこうやって電池が切れるみたいにソファーで眠ってしまうこともあった。はじめに談話室で眠らないと決めたのは一禾だったような気もするけれど。 「・・・ーーー」 それにしてもホテルの住人は、いつも一禾に世話をしてもらっているのに、一禾のことを世話をする人物はここにはいない、不思議なことに。皆が一禾に甘えていて、それが常態化してしまっているので、今更一禾も何も言ったりはしないし、きっと一禾は誰かに頼ったりはしない。特にここの誰かには。そんなことを考えている京義でさえ、一禾に甘えているし、逆に一禾に甘えられても困ってしまうことは目に見えていたけれど。 (誰かに分かってもらえてんのかな、そういうこと) 本当は疲れて眠ってしまいたい夜もあるし、誰かに慰めてもらいたい夜もある。そういう夜もあっていいはずだった、きっと。 (いっつも染のことばっか気にしてるけど、お前だって) 誰かに頭を撫でてもらうことも必要なはずだった。それを一体誰が担うのかは一旦置いておくとして。京義はひとつゆっくり息をつくと、夏衣が読んでいる本が入っている本棚の下の扉を開けて、ブランケットをそこから取り出した。そうしていつか一禾がそうしてくれたように、眠る一禾の体の上にそっとそれを広げてかけた。一禾に今更それを伝えることはできないし、きっと伝えたら一禾は困ってしまうから、京義は絶対にその事だけは言わないでおこうと思っているし、分かっている。そんなことを夏衣に釘を刺されなくてもきっと、分かっているしするつもりもなかった。ただ、京義の人生の中で一禾は二人目だったのだ。無条件で優しい言葉をかけてくれて、頭を撫でてくれたのは。一禾が二人目だった。 (条件付け、親鳥だと思ってるだけ) (ただ優しくしてくれたから、それだけ) 生まれたての雛が動くものを親だと認識するみたいに、きっとそういう優しさに触れていなかったから、それがただ自分にとって特別で、眩しかったから、それだけ。そう言い聞かせて、京義はそっとソファーから離れた。一禾が誰のものかなんて一目瞭然だし、それに口を出すべきではないし、出したところでどうにかなる問題ではないことはわかっていた。 (それだけ) まるで自分にそう言い聞かせるみたいに、京義はもう一度心の中で呟いてから、さっき椅子の上に置いたばかりの鞄を持って談話室から出ていった。 翌日、いつものようにあまり寝られなかった京義は、紅夜のうるさい声に起こされて自室から談話室に向かって階段を降りていっていた。すると途中で紺色のエプロンをした一禾が下から上がってくるのが見えた。一禾は京義に気づくと立ち止まってそれからにっこり笑った。 「京義、おはよう」 「・・・おう」 そのまま京義は足を進めようとしたけれど、一禾はその場所から動かなくてじっと京義のことを見ていた。その視線に足が不自然な動きになって、腕が固まる。何か悪いことをしているわけではないはずなのに、背中がすっと冷たく感じた。 「・・・なに」 「いや、昨日俺、談話室で寝ちゃってさ」 「・・・ーーー」 一禾が何を言おうとしていたのか、京義には分からなかったし、分かるはずもなかった。 「昨日、ブランケットかけてくれたの、京義でしょ」 「・・・」 「嬉しかったよ、ありがとう」 「・・・ーーー」 それに一体なんと返事をすれば良かったのだろう。一禾はにっこり笑うと、そのまま階段を上っていて、2階の廊下を曲がっていた。今から自室に戻るわけがないから、きっとまだ眠ったままの染を起こしに向かったのだろう。分かっているのだ、何もかも。分かっているのにいつも、ここでこうして決意したはずの気持ちが揺さぶられるのはどうしてなのだろう。もしかしたらその一禾の優しさが他の何かなのかもしれないと、勘違いしてしまいそうになるのはどうしてなのだろう。京義には考えたって分かりそうもないことだった。 (コーヒーを飲もう、特別、濃いやつ) そうすればきっと頭も冴えるし、こんな馬鹿な考えに脳味噌を支配されていなくてすむはずだから。京義は急いで階段を降りた。早くしないとまた、その言葉に期待してしまいそうになる自分に、歯止めが利かなくなることが分かっていたからかもしれない。

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