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別れの曲は歌えない

春が来た。 真新しい気持ちで去年と同じ制服に腕を通して、紅夜は鏡の中の自分ににっこりと笑いかけた。ホテルに来てから、もうすぐ一年が経とうとしている。長いようで短い一年だったと、しみじみ考えながら鞄を取り上げる。紅夜の日常で言えば、一年くらいでまた親戚の家から家へ、住む場所を変わることも珍しくはなかったのだが、今回に限って言えば、しばらくここに置いてもらえそうだという、不思議な安息感もある。それに騙されないように、裏切られた時が怖いから、何となく慣れないようには気を付けているつもりだったが、ホテルでの生活は、紅夜が今まで体験してきたそれとは全然別物で、もしかしたら家族ってこんな形をしているのかもしれないと、歪な住人たちを見ながら思う。それだけは絶対に違うと分かっているのに、紅夜は時々、彼らが自分の家族になったみたいで、そして自分も誰かの家族の一員になったみたいで、嬉しくなってしまうのだった。 「おはようございます!」 「おはよう、紅夜くん」 自室を出て、談話室に降りていくと、そこにはすでに一禾の姿があった。大学生である一禾は、高校生の紅夜と京義よりもはやく学校が始まっているようで、長い休みの後は必ず学校に行きたくないと渋る染の腕を、最近では毎日引っ張っている。一禾は誰より早く起きていることが多く、紅夜と京義のためにお弁当と、全員の朝食を作っている。不思議なことだが、一禾は紅夜と京義のためにお弁当を作るくせに、自分と染のためにはお弁当を作らない。理由はよく知らない。 「あ、制服、今日から新学期かー」 「今日、クラス替えがあるねん、ちょっとドキドキするわー」 「あ、そうなんだ、いいねぇ、高校生っぽい」 お弁当箱におかずを詰め込みながら、一禾は笑ってそう言った。1年の時、紅夜と京義は違うクラスだった。京義がクラスでどんな風なのか、紅夜はよく知らなかったけれど、一緒に帰るために迎えに行くと、大体一人でぼんやりしているか、机に突っ伏して眠っているかの二択であり、京義が他のクラスメイトと喋っているところ全く見たことがない。大体、京義はその派手な容姿で、学校全体に敬遠されているみたいなので、大方予想はついたが、嵐がいつか言っていたみたいに『友達はいない』のだろう。紅夜だって、京義の次に敬遠されていると言っても過言ではない嵐とつるんでいるせいなのか、女の子に話しかけられることはあっても、男友達は一向に増える気配がなくて、それは少し寂しいような気がした。 「今度は京義と一緒のクラスになれるとええなぁー」 「そうだねぇ」 一禾の少しのんびりした返事を聞きながら、紅夜は朝刊を取りに、一旦談話室を出て行った。 眠そうな京義を引っ張るように学校に連れて行くと、すでに昇降口にはクラス分けの張り紙がしてあり、その前には人だかりができていた。 「あ、もうクラス張り出されてるんや」 「・・・めんどくせぇ、別に同じクラスでいいだろうが」 京義が半分欠伸をしながら、呟くように言った後、眠そうに目を擦った。その不機嫌そうな声に驚いたみたいに近くにいた女子生徒が不自然な動作で京義から距離をとろうとするのを、紅夜は苦笑いをしながら眺めていることしかできなかった。 「嵐見える?俺こっからじゃ見えへんわ」 「なんとなく見えるけど、下の方は全然・・・」 三人の中で一番背の高い嵐が背伸びをしても、その張り紙の細部までは見えなかった。これはしばらく待って、この人だかりがどこかに行くまで待つしかないのかと思ったけれど、周りの生徒たちは依然騒がしくしていて、一応張り紙のそばには先生もいて、確認したらすみやかに教室に向かうように、なんて指示を出していたけれど、それに耳を貸していて従いそうな人間はどこにもいなかった。このままでは一時間目がはじまってしまうと思いながら、ちらりと紅夜が腕時計で時間を確認した時だった。 「よぉ」 頭上から声がして思わず声のした方を見やると、そこには京義ほどではないが、眠そうな目をした保険医の唯が立っていた。 「あ、唯ちゃん」 「何してんの、唯ちゃんこんなとこで」 「うるせーから見に来たんだよ」 欠伸を噛み殺すようにして、眼鏡の奥の目を擦ると、唯はちらりと校舎の方を見やった。保健室は確かに1階にあったから、保健室にいるとこの喧騒が直接響くのだろう。それにしても唯の性格だと、いくら煩くても放っておきそうなものだが、と思ったけれど紅夜はその時そのことには言及しなかった。その眠そうな風貌とは真逆の整えられたシャツとネクタイが、春の強い風に煽られて、唯は小さく舌打ちをした。 「あ、唯ちゃん、丁度いいからさ、俺らのクラスどこか見てきてよ」 「ほんまや、唯ちゃんやったら道開けてくれるわ、みんな」 「何で俺がそんなことしなきゃいけないんだよ」 面倒くさそうに呟いて、唯は胸ポケットに手をやったが、そこの膨らみの正体は、保健室のデスクの上に置きっぱなしになっている。 「じゃ、俺もう戻るから」 「え、もう戻るん?」 「何しに来たんだよ」 「何って冷やかし。全員違うクラスになるといいな」 「やめろよー、唯ちゃん」 嵐が大声で立ち去っていく唯の背中に声をかけると、唯は一瞬だけこちらを見てからなんの合図か分からなかったが、右手を上げた。三人から唯が離れるのを待っていたらしい女子生徒が、ここぞとばかりに唯の周りに集まりはじめて、徐々に唯の歩くスピードは落ちていったが、しばらくして唯は校舎の中に消えていった。穏やかだった。それ以上でも以下でもないくらいに穏やかな時間が流れていた。紅夜だって何年か同じ家にいて、何年か同じ学校に通ったこともあったけれど、こんな風に穏やかな気持ちでこの季節を迎えることができたのは、今日がはじめてだった。行きを吸い込むと間だ少し冷たい中に、暖かい春の匂いが混ざったような柔らかい空気を感じる。来年、来年はどうなるのだろうとぼんやり桜と張り紙を見ながら、紅夜は思った。来年もここでこうして、三人で同じような会話ができるのだろうか、それとも。 「なぁ、紅夜」 「うん?」 不意に嵐に話しかけられて、紅夜は空中に分離していた意識を呼び戻した。 「前の方ちょっと空いたから見に行こうぜ」 「あぁ、うん」 「薄野はどうすんだよ、いいのか」 「俺は興味ないから、別にいい」 「興味ないってもクラスわかんねぇと困るだろ」 「あはは、京義はここで待っててな、俺代わりに見とくわ」 その日はあまりにも穏やかな春の日だったから、その続きのことを祈らざるを得なかった。

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