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白い薔薇の淵まで Ⅰ

学内の桜は満開だった。染は「桜を見ると憂鬱な気分になる」と毎日憂鬱な気分の癖に、今日も朝から青い顔をして、当然みたいにそう言って、一禾相手にどうにか学校をサボってもよい口実を考えていたようだったが、一禾はそんなことに付き合っているほど暇ではなかったので、さっさっと染を高級車の助手席に押し込んで、いつものように学校まで運んだ後だった。いつの間にか2年から3年になって、真面目に通っている生徒なら、そろそろ単位に目星がついてきたから、受けなければいけない授業も減ってくるはずだったけれど、染の場合は、授業を出席不足で落としていることも多くて、スケジュールは染のやる気とは裏腹にまだ黒々としていた。それでも家から一歩も出られなかった時期を知っている一禾からしてみれば、大きな進歩だったりはする。 (次の授業どこだったっけな) 授業の案内は大抵オンラインで済まされるが、その時一禾は何となく、掲示板の近くにいたから、掲示板をわざわざ見に行った。いつもならこんなことはしないし、もう誰も掲示板で授業の何かを確認したりはしないけれど、急な変更はオンラインの更新を待たずに掲示板に貼り付けられることが多くて、そのせいで急遽教授の都合で授業が取り止めになったのを知らずに、学校に来てしまうことも少なくはなかった。 「・・・あれ」 その時、掲示板の前にはちらほらと学生がいて、でも多分みんな若くて赤い頬をときめかせていたから、なんとなく1年生だろうなということは分かった。一禾は彼らから少し離れた場所から、何となく掲示板を見ていたが、その掲示板の一番端っこに誰の目にも触れないようにしているかのような、小さな字で、准教授の辞職について書いてある報告が貼り付けられていた。 「・・・これは」 思わず近づいて、それを見ると3月末で退職したことが書かれていた。そう言えば、あの事件以来姿を学内で見ることもなかったけれど、こういうことになったのかと、一禾はぼんやりと思った。写真はどうなったのだろう、一禾はふと写真のことを思い出した。自分はばらまかれても構わないが、きっと玲子にとってはまずいことになるに決まっていた。多分父親の桜庭にとっても。 (もしかしてこの辞職のことも、桜庭さんが・・・) 桜庭はあの時たまたま講演に来ていた違う学校の教授だ、部外者がそんな権力を持ち合わせているなんてことは、恐らくないだろうとどこかで思いながらそれでも、男の辞職はどう考えてもタイミングが良すぎた。一禾はポケットから携帯電話を取り出して、中から桜庭の電話番号を探した。 (電話なんてかけてどうする) (これじゃあまるで、俺のほうが期待してるみたいだ) 桜庭の電話番号を見ながらひとつ溜め息を吐いて、もしかしたら自分に電話を掛けてくる女の子たちは、その瞬間、こんな風に逡巡しているのかもしれないと思ったら、その時だけはなぜか、女の子達の気持ちが分かったような気がしたから不思議だった。一禾は小さく息を吸った後、通話ボタンを押して携帯電話を耳に当てた。コール音が何回鳴ったか分からなかったけれど、それがひどく長く感じた。 『もしもし、桜庭ですが』 コール音が鳴っている最中、桜庭が出なければいいのにと思っていたけれど、桜庭はあっさり電話に出て、一禾は一瞬息を飲んだ。近くで女の子が急に大声で笑いだして、びっくりして慌てて掲示板の前から早足で離れながら、もう一度携帯電話をしっかり掴んだ。 「・・・桜庭さん、ご無沙汰しております、上月です」 『あぁ、君か。どうかしたのかい』 久しぶりに聞いた桜庭の声はひどく穏やかな声色で、一禾はそれを聞きながら胸の中がひどくざわつくのと同時に、どこかで安心していた。桜庭の声はそういう不思議な力があった。玲子と少し似ていると思ったけれど、玲子よりも一禾に与える影響力は強かった。 「・・・今、あの、以前の、准教授の辞職を知りました」 『あぁ』 桜庭はなにか言うかと思ったけれど、ただそうやって相槌を打っただけだった。もしかしたら本当にこの辞職に桜庭は絡んでいないのかもしれない。そう思うと首から上がひどく熱くなってきて、電話を掛けてしまったことを一禾は後悔していた。てっきり桜庭が自分のために、裏からなのか何なのか分からなかったが、手を回して、彼を辞職に追いやったのだと思って、舞い上がって電話をしてしまったけれど、もし全然あの事件とは関係がなく、何らかの事情で彼が勝手に辞めてしまったのなら、それはひどい思い上がりだ。 「・・・えっと」 『結局3月末になってしまったということか』 「・・・え?」 『思ったより時間がかかってしまったな。その間さぞ不快だっただろう、すまなかった』 「・・・いや・・・」 落ち着いた桜庭の声に、熱くなった脳内が冷まされていく感覚がした。やはり桜庭が噛んでいることだったのか、思い上がりでもなんでもなく。そう思うと、それはそれで不思議な気分だった。嬉しいような恥ずかしいような、誰かに心配される経験があまりない一禾にとっては、桜庭のそれをどう捉えたらいいのか分からなくて、曖昧な返事しか口から出てこない。 「・・・やっぱり、桜庭さんが・・・」 『それを分かって電話をかけてきたんじゃないのか』 「いや、多分そうかなって思っただけで・・・確証はなかったんですけど・・・」 『はは、なんとも君らしい』 渡り廊下の端っこは誰もいなかったから、一禾は回りの人間の視線を感じる必要がなくて、本当に良かったと思った。今時分がどんな顔をしているのか、検討もつかなかったから。 「ありがとう、ございました」 『いや、大人として当然のことをしただけだよ』 桜庭と話していると、いかに自分が子どもかということを自覚させられて、それは一禾にとっても不思議な体験だった。今までずっと、大人のふりをしていなければいけないことが多かった。他の人よりずっと早く大人であることを周りには求められていたように思うし、大人であることに一禾自身もどこか居場所を感じていて、どこかその方が心地が良かったような気がする。だから桜庭と話していると、自分が実年齢よりももっとずっと小さい子どものようになった気がして、それはそれで居心地が悪いような、どこかこそば痒いような、それでいてどこか嬉しいような、不思議な気持ちがするのだった。 「写真のことは・・・」 『写真は処分させた、出回ることはないだろう。君は心配しなくていい』 「・・・良かった」 きっと桜庭にとっては娘の玲子のためなのだろうが、玲子に迷惑をかけること、玲子という居場所を失うことは、今の一禾にとってもデメリットだった。今そんなことを考えていることを、桜庭には死んでも言えないとは分かっていたけれど。

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