227 / 302

白い薔薇の淵まで Ⅱ

『勘違いしないでもらいたいんだが』 「え?」 『これは玲子のためというより君のためにやったことだからね』 「・・・ーーー」 そういえば、誰かの心配をするのも、誰かのために何かをするのも、いつも一禾の仕事で、その逆は一禾の人生の中ではほとんどなかった。だからこんな時に、何と答えるのが正解なのか分からなかった。だから一禾はすぐに返事ができずに、数秒沈黙するしかなかった。 「・・・ありがとう、ございます」 『その後、相手の方から接触はなかったかい』 「ないです、あれからずっと」 『そうか、良かった』 「・・・あの」 一禾はその先を聞こうとして少しだけ、気管が詰まったような気がした。聞いていいような悪いような、聞かないと気持ちが悪い癖に、聞いてしまうと何かが終わってしまうような、不思議な気分だった。それでも多分、一禾はそれを聞かないでおくことはできなかった。 『なんだい』 「・・・あの、どうして俺のために、こんなこと、してくれたんですか」 『それは前にも言ったような気がするが』 「すいません」 自分の謝った声が、ひどく小さく聞こえたような気がして、ともすれば電話の向こうの桜庭には届いていないのではないかと思った。 『それは君に下心があるからだよ』 「・・・ーーー」 そうして桜庭は嘘か本当なのか分からない、曖昧なことを言って、曖昧に笑うのだった。 桜並木はスクールバスが発着するバス停に沿って人工的に作られている。見頃はとうに終わっていて、花びらの間から新緑が顔を出しているほうの割合がまだ少し多いように感じる。春の強い風が吹く度に、はらはらと元々弱くしか接着していない花びらが落ちてくるのを、一禾は外に設置されたベンチに座ってぼんやりと眺めていた。3年生は今日はあまり授業がない日なのか、一禾の前を過ぎていく女の子たちは一禾の前で一々立ち止まったりしないのが、気が楽でよかった。きっと染ならこんな風にはならない。知っている、知らないに関わらず、興味を集めてしまうのが染という人間なのだ、それが染の生き辛さに繋がっていることも十分理解しているつもりだったが、それは見る人から見ればひとつの才能でしかなかった。 「よう、一禾」 「・・・キヨ」 ふと声をかけられて、顔を反射的に上げると、そこには一禾とは学部が違うせいで、あまり授業が被ることのない染を任せている、一禾が唯一男の友達の中で信用していると言っても過言ではない、キヨがひとりで立っていた。学内では一禾にひっついておくことができないので、仕方なく染がいつもキヨに引っ付いているはずだったが、今日に限って、キヨはその時一人だった。 「悪い、最後の講義がなんか時間通りに終わらなくて」 別段キヨを待っていた訳ではないのだが、言おうとして、一禾は唇を結んだ。他人を信用できなくなったのが、いつからだったのか分からなかったけれど、一禾は人一倍「他人」という生き物に警戒心が強かった。逆にどうやったら、そんな風に自分を晒すことができるのか不思議なほど。そんな中で、キヨだけは染に危害を加えないと信じているし、自分がいくら毒を吐こうが側にいてくれることを、何となく一禾は分かっていて、でもそれがどこから来る信頼なのか、もしかしたら信頼以外の何かなのか、一禾にはまだ分からない。 「そんなの別にいいんだけど。染ちゃんは?」 「あぁ、なんか、鳴瀬に捕まってる」 「鳴瀬?」 「ほら、ゼミが一緒の」 「誰だっけ」 キヨがベンチの空いているスペースに腰を下ろすのに、一禾は視線をやりながら考えていた。記憶しなくていいことは、あまり記憶に残しておくタイプではなかったので、その時キヨに名前を出されても、一禾はまったくぴんと来なかったし、ぱっと顔が出てこなかった。キヨは隣で携帯電話を取り出して、たいして興味もないくせにそれを手持ちぶさたに弄りはじめた。 「なんだよ、お前、あの時あんなに怒ってたくせに」 「怒ってた?俺が?」 「あー・・・」 何となく地雷を踏んだ気配がして、キヨは左手でこめかみを掻いた。そう言えばあの時の一禾は変だったし、きっとそれは鳴瀬が一禾と似たような爽やかな男前であることと、一禾は絶対に認めないけれど、関係していることなのだろうと分かっている。染の警戒心が自棄に緩いのも、一禾と一緒にいるみたいな安心感があるのと同時に、一禾よりもずっと優しくしてくれる鳴瀬の側にいるのが心地が良いのだ。もっとも、一禾がどうして染に厳しく接しているのかについては、染だってきっと本当のところでは分かっているはずだけれど、人間が楽な方に流れるのは、染に限ってのことではないし、それを咎めてやるのは染が可哀想な気がした。キヨは時々、自分が一禾の肩を持った方が良いのか、染を擁護してやるべきなのか、分からなくなるときがあった。 「それよりさ、お前見た?あの准教授辞めた話」 「・・・うん、さっき掲示板で見たよ」 「あいつなんか気持ち悪かったもんな。ゼミの子が全然関係ないのに研究室に呼ばれたって言って怯えてたけど」 「え?」 「きっとなんかしてたんだろうな、裏でさ」 言いながらキヨはまた少し俯き加減になって、携帯電話をいじりはじめた。そんなこと知らなかった。自分だけではなかったのかと思うと、妙な安心感と心臓の近くがざわざわする、落ち着かない感じがした。あの男からしたら、自分はその辺を警戒心なく歩く、女子大学生と変わらないのだろうか。それを最早誰に確かめたら良いのか分からずに、一禾は小さく息を吐いた。不思議なことだったけれど、何となく自分が被害にあったことや桜庭との間にあることについては、染には勿論、他の誰にも言えないような気がした。染を守らなければいけない立場の自分が、そんな女子大生と同じ危機に晒されているなんて、誰にも言えそうになかった。 「・・・知らなかった」 「あ、そうなの?結構有名な話だと思ってたけど」 「そうなんだ」 「でも一禾はあんまり接点なかったもんな」 「・・・ーーー」 言いながらキヨがベンチから立ち上がる。黒のスキニーパンツに無理矢理携帯電話を捩じ込むと、右手を上げてそれをゆるゆると遠くの誰かに向かって振っているように見えた。 「オイ、染来たぞ」 「・・・あぁ、うん」 一禾は曖昧になる意識の中で、ぼんやりとそう返事をした。

ともだちにシェアしよう!