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白い薔薇の淵まで Ⅲ
考えたことがなかった。自分がまさかそんな簡単に被害にあってしまう、か弱き女の子たちと同じでいるなんてこと。今まで想像もしたことがなかった。そんなことがあっても守ってくれる人はいなかったし、自分でも自分を守ることを呆気なく放棄していたし、誰に何を求めたら良いのか分からなかった。染を守る方法は幾つでも思い付くのに、皮肉なものだった。
(江崎先生も言ってたな、自分で自分を大事にしろって)
大人は口を揃えて同じことを言う。だとしたらそれが真実なのかもしれない。一禾が届かないでいる、唯一の真実なのかもしれない。だとしたら自分は大人ではないことを、庇護されるべき子どもであることを知らしめられるみたいで嫌だった。
「一禾?」
「・・・えっ?なに」
不意に隣からそう呼ばれて、一禾ははっと我に返った。染を隣に乗せて、学校から帰っているところだった。染に気づかれるほどにぼんやりしていたのかと思って、慌ててハンドルを強く握った。この弱い幼馴染みを守るために、一禾がしてきたことは確かに実に多かったけれど、それ以上に染からしてもらったことも多い、本当は。そんなこと染は気がついていないと思うけれど、そしてそんなこと、一生気がつかなくても構わないのだ。染が気づいても気がつかなくても、一禾のやることは変わらない。
「鳴瀬はいいやつだよ、普通の」
「・・・あぁ、そう・・・」
何の話をしていたのか、思い出せなくて一禾は適当な相槌を打った。確か、鳴瀬は染と同じゼミ生だった。爽やかで女の子が好きそうな容姿をしている。何度か染と話しているところを見かけたけれど、悪そうな人間には見えなかった。けれど染に近づいてきた人間、それが男でも女でも、最早一禾には関係のないことだった、が何の企みもなく、ただ純粋に染と仲良くなることが目的だったことなんて、今までに一度もなかったから、きっとあんな純粋無害そうな顔をして、考えていることは違うことなのだろうなと思いながら、奥歯を噛んだ。染が鳴瀬を「いい奴」だと思っていればいるほど、排除するのが面倒くさくて頭が痛い。
「一禾は考えすぎだよ、いつも」
「・・・だと良いけど」
だったらきっと自分の身は自分で守れるはずだった。この暢気な幼馴染みはこっちの気も知らないで、と思ったけれど、水面下で汚いことをしている自分の事なんて、本当は染には知って欲しくない。その矛盾についてどう処理すればいいのかどうか、一禾だってずっと困っている。それを染に分かってほしいと思う自分と、染にだけは絶対に知られたくない自分がいて、それは絶対に相容れないところに住んでいる。
「一禾もきっと仲良くなれるよ、俺がなれたんだから」
「・・・そうだね」
知らないでいて欲しい、分かっていて欲しい。どっちの自分も慰めてやりたいけれど、一禾はそれになんとも思っていない風に答えるしかなかった。とにかく今までと同じように、今までの全てを変えないでいるように、だって今までの全ては、一禾の全てだったから。
(俺が自分のことを染ちゃんより大事にできる日なんてこない、それでもいい)
それでもこの幼馴染みが笑っていてくれるなら、それで十分なのだ。
ホテルに戻ると、いつものように夏衣が絡んできてそれを面倒臭いと思いながら振り払って、一禾は一度自分の部屋に戻ってきた。一禾は料理をしたり片付けをしたりしている時間が長かったから、ホテルでは談話室にいることが多く、寝るときくらいしか自分の部屋は使わなかった。そこのクローゼットにもシューズボックスにもアクセサリーケースにも、一禾のものであり、一禾のものではない装飾品が息を潜めて、そこから取り出される日を待っている。ふうと息を吐いて、帰ってきたままの格好でベッドに横になる。すると側に置いてあった携帯電話が震えて、一禾はそれをぼんやりした頭のまま取り上げた。
(玲子さん)
彼女は彼女が寂しかったり、暇だったりするタイミングで勝手に電話を掛けてきて、一禾にその穴を埋める手伝いをさせている。彼女の部屋に行く度に、そういう目的で繋がっている男は、自分の他に何人かいるのだろうなと思うけれど、彼女にそれを尋ねたことはない。完璧な婚約者と完璧な生活のどこが不満なのか分からないけれど、一禾にとってそれは詮索するべきではないことだし、知らなくても構わないことだった。
「・・・はい」
『一禾?』
「・・・どうしたの、玲子さん」
優しい声を出してできるだけ、彼女の不安に寄り添ってあげる必要があった。彼女は一禾の前で愚痴を溢すことはなかったけれど、それは一禾みたいな他人に寄生して生きている人間に話しても、理解できないことだと、彼女が思っているからなのかもしれないが、一禾はそれでも毎回そのスタンスを崩すことはしなかった。玲子の側にいるためには、それくらいしなければいけないし、玲子はそれくらいしてもいいと思えるほど、一禾にとっては利用価値の高い人間だった。まるで不安の穴埋めをしているのが、時々自分なのか、玲子のほうなのか分からないくらいには、一禾にとっては玲子は大切なパトロンのひとりだった。
『暇だったから。ねぇ、明日部屋に来れない?』
「・・・明日か」
『ダメなの?』
「うーん・・・」
その日は桜庭と会う日だった。
「ごめんね、玲子さん。明日は学校に行かなくちゃいけなくて」
『珍しいね、一禾がそんな風に言うなんて』
「そうかな?俺、一応大学生なんだけど」
『そういう意味じゃないのよ』
言いながら玲子が電話の向こうで笑った気配がして、一禾は少しだけほっとした。こんなことで玲子は怒ったりしないし、自分のことを見限ったりしないと分かっていたけれど、どんな状況になっても一禾はまだ玲子を失えなかった。そんなことは誰にも言えなかったけれど。
『分かった、じゃあまたね』
「うん、また」
玲子はあっさりとその時そう言って、すぐに通話が切れてしまった。彼女にとってはそんなに優先度の高いことではなかったのかもしれないし、一禾がダメなら他の男を呼べば良いだけの話で、彼女にとっての暇潰しは一禾だけではないことは分かっているつもりだった。そんなことにいちいち虚しさを感じるほど子どもではないし、物分かりが悪い大人でもなかった。もう待っても音のしない携帯電話を耳から離して、一禾は小さく溜め息を吐いた。玲子より桜庭の予定を優先してしまったことは、自分でも不思議な気分だった。どちらが大切か、なんてそんなことは明白だった。誰に言われるまでもなく、そんなことは分かってるつもりだった。
(俺だってたまには、誰かに慰めてもらったって構わない、そうだろ)
言い訳を考えたけれど、自分で言い訳だと自覚しているそれが、意味があったのかどうか分からなかった。
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