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白い薔薇の淵まで Ⅳ

翌日、外に出るのを嫌がる染をなんとか宥めて大学まで送り届けると、大学に車を置いて、一禾は電車に乗って桜庭の指定した品のいいレストランまで向かった。多分、普通の大学生は高級車なんて乗り回していないし、高い時計も持っていないほうがそれらしかった。服装も前みたいにかっちりしたものより、カジュアルでよりお金のない大学生みたいなほうが、桜庭の好みかと思って、自然に持っている中で数少ないノーブランドの服をあえて選んだりしたけれど、そんなことが意味があるのかどうか分からなかった。電車の不規則な動きに揺られながら、平日の昼間から、授業を放棄して、家でも女の子の家でもなく、年の離れたおじさんと会うのに、そういう考え方がそもそも適切なのか分からない。普通の大学生はこういう時はどうするのだろう。 (面倒くさいな・・・) では玲子のところに行くべきだった。多分、そうするのが『適切』だった。思いながら一禾は知らない街の改札を潜って、歩きながら携帯電話で地図を確認した。大人の手に撫でられることは、思ったより不快ではなかったけれど、それに至るまでの経過が面倒くさくて、一禾は自分の行動ひとつひとつにいちいち言い訳を考えなければいけなかった。そんなことを考えなくても、無条件で守られる人間もいるのに、それと自分がどんな風に違うのかも、考えても分からなかった。 (ここか・・・) オープンテラスのレストランは、前に桜庭とディナーをしたときのような重厚感はなくて、一禾みたいなお金のない大学生でも、少し頑張ればふらりと入っていけそうな雰囲気はあった。桜庭のほうが配慮をしてくれたのかもしれない。一禾はしがない大学生だったし、とてもホテルのディナーを普段から食べているような人間ではなかったからだ。そういう人間に自分を見せる術には長けていたけれど、どう考えてもそれは、偽物でしかなかった。玲子だって他のパトロンだって一禾がしがない大学生だということは勿論知っていたし、それがいいと言われることだってあった。けれど一禾を外に連れて歩くのに、それ相応の身なりでなければいけなかったし、相応の身分でなければいけなかった。一禾はそう振る舞うことはできたけれど、それになることはできなかった、本質的に。でも多分、偽物だって良かったのだ、それは一禾もそうだったし、きっと玲子や他のパトロンだってそうだった。誰もそのままの一禾の事なんて、そういう意味では必要としていなかった。 (なんかそれって、すごく虚しい考え方だけど) だから桜庭と会うのは楽だったのかもしれない。本当の自分に似つかわしくないものは、どこかに置いておけば良かったから。レストランのエントランスを通り抜けると、ボーイが来店した一禾を目ざとく見つけて近寄ってきた。その口許には笑みが浮かんでいる。 「いらっしゃいませ」 「すみません、待ち合わせてて、桜庭さん来ていますか」 「お待ちでございます」 先に来ているとは思わなかったので、一禾は少しだけボーイの返答に驚いて、半歩だけ後ろに下がってしまった。ボーイはそのまま一禾を先導するように歩き出して、一禾は慌ててその背中を追いかけた。桜庭が先に来ているとは思わなかった。何となく、前回コーヒーショップで、時間に遅れた桜庭に不機嫌な態度をとったことが原因かなと思ったけれど、本当のことは分からない。 「すみません、お待たせしました」 「・・・いや」 光の当たる窓側の席で、桜庭は透明な飲み物を傾けて待っていた。ボーイが椅子を引いてくれるのに合わせて、一禾がそれに座るのを、桜庭は短い言葉を発するだけでただ見ていた。 「お久しぶりです」 「久しぶり、元気そうで安心したよ」 そう言って桜庭は口許だけで微笑んで見せた。不思議だった。言いたいことはあるはずなのに、何を話せば良いのか分からなかった。 「・・・あの、准教授の、本当にありがとうございました」 「いや、大人として当然のことをしたまでだよ。それをネタにまた君と会えるんなら安いものだ」 「・・・ネタって」 言いながら一禾は口のなかで笑ってみたけれど、相変わらず桜庭の言葉は本気かどうかわからなくて、どうリアクションをとったら良いのか迷うなと思っていた。下心があるなんて平気で言う癖に、そういう見返りを求めてこないのも、何となく変な気がして、一禾はそれはそれでどう振る舞うのが正解なのか分からない。桜庭の前にいると、まるで自分が自分の価値が若いことだけだと知っている10代の女の子みたいだと思うけれど、10代の女の子みたいにはとても振る舞うことなんてできそうもなかった。だって一禾は10代の女の子ではなかったし、そんな風に無防備ではないつもりだった。 「あの人、俺だけじゃなくて、他の生徒にも手をだしてたみたいで」 「・・・ふーん、とことんクズだな」 「だから、いなくなって良かった。きっと他の生徒もほっとしてると思います」 「別に僕は他の生徒のことなんてどうでもいいんだよ」 「・・・え?」 言いながら桜庭は透明のグラスを傾けた。透明の液体の中には無数の泡が浮いていて、それが下の方から上へと上ってはぱちんとはじけて消えていく。 「言っただろう、あれは君のためにやったことだって」 「・・・ありがとう、ございます」 他にどんな返事をしたら良いのか分からなかった。他のどんな返事もこの場所にはふさわしくないのかもしれないが。桜庭が満足そうに頷いたので、きっと間違いではなかったのだろうと思いながら、一禾はようやくほっとすることができた。運ばれてきた料理が音もなくテーブルに置かれて、一禾の視線が一瞬そちらに奪われる。ボーイは床を滑るようにすぐにテーブルから離れていった。 「今日、本当は玲子さんにも誘われてたんですよ」 「・・・ふーん、それでよく僕の方に来る気になったね」 「桜庭さんとの約束が先だったので」 「君がそんなに律儀な方だとは思えないけれど」 言いながら桜庭が笑って、一禾はまた少しだけ安心した。玲子の話題はタブーではないが、桜庭は父親として婚約者のいる玲子のことが本当は心配だったり、一禾には別れて欲しいと思っているのだろうと思いながら、その話をあえてするのはどうしてなのだろうと、自分でも不思議に思ってしまう。本当は止めて欲しいとか、桜庭に叱って欲しいとか、そういう気持ちがあるのかもしれない。けれど目の前に座る桜庭は優雅なもので、一禾が玲子の話をしても、ただ笑っていたりするのだ。 「玲子よりも僕に会いたかったとか、そういう可愛いことを言ってくれても良いと思うが」 「・・・言いませんよ、そんなこと。俺、必要のない嘘はつかないんです」 「はは、必要そうな嘘のような気もするけどなぁ」 桜庭と一緒にいると不思議な気分になる、自分が圧倒的に年下で、無力であることが分かったとしても、わかっているからこそ、それにあがく必要がないからだろうか。それに甘んじていても、そういう一禾のことを、指摘する人間がここには誰もいないからだろうか。 「でも桜庭さんと話すのは好きですよ」 「へぇ」 「なんか、俺のままでいても、大丈夫な気がするので」 それは一禾にとっては不自然で、不思議なことだったけれど。

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